大木金太郎は好青年に決定である

 3月8日、正午に新宿に出る。想い出横丁に入り何となく目に付いた飯屋にもぐり込む。レバテキ定食七百五十円也。また随分と戦後チックな物をと?今日はこれからテアトル新宿で「力道山」を観るつもりなのでレバテキでもと。鯨のステーキでゲイテキなんてメニューも昭和20年代には流行ったらしいが今は庶民の味というより結構なグルメ食になるのだろう。で、このレバテキも実は何のレバーだか私もわからないのだが。店主に聞けば何のレバーだか教えてくれるのは間違いないと思う。
 が、何のレバーなのかを聞いても苦笑いして「何のレバーなんすかねぇ」などと言ってくれた方が今日の気分には合いそうだ。それどころか何のレバーなのかを聞いた途端に青い顔でカウンターから逃げ去る店主を私も青くなって追いかけてみたい。それが今日の私の気分だ。そんなこんなで戦後のどさくさ気分に己をシフトさせ肩で風を切りつつテアトル新宿へ。ドスを効かせた声で受付にちょっと観せてもらうよとひょいと右手を上げただけでそのまま場内へ。そこまですると調子付き過ぎなのでチマチマと千円札を一枚引っぱり出してチケットを。毎週水曜は千円。水曜日には割引料金というレジャー施設は多い。大概の人々は水曜日には映画も遊園地もパスしたい性質を持っているのか知ら。
 しかし客席は初老と呼べそうな年代の男女でそこそこ盛況である。昭和19年に力士の道に入ったシルラクが後に力道山として関取から大関昇進が見えはじめた頃になると朝鮮出身者の力士は大関になれないのだと知らされ荒れ狂う。その後プロレスに転身し国民的英雄に成長するまでを後見人の菅野とその背後の黒社会、菅野のスパイとして力道山のマネージメントを引き受けたがその人柄に胸打たれ最期まで力道山を支えたマネージャー、そして無名時代からの素顔と素顔で互いを守り合った妻、綾との人間関係の複雑なパズル。
 主演のソル・ギョングのビルドアップされた肉体は力道山を演じるに充分な迫力だが演技そのものが台詞の一行一句が力技のぶちかましといった感。とてつもない精神力の持ち主なのだと圧倒される。個人的にはそうしたガンバルマン的なシゴキ芸にアレルギーなはずの私でもソル・ギョングのひたむきな全身全霊を賭けた演技には涙腺大破であった。
 はっきり言ってジョニー・キャッシュの伝記映画よりこっちの方が良かったのだがそれはやっぱり私も日本人ですわということになるのかどうか。力道山は日本人じゃないし公然のダブーである韓国籍は当時公然では。公然と涙して一応陳謝す。