夢見るように眠る店発見である

 ブックオフの登場以来、古本業界の事情も変わったようだ。街の古本屋もばたばたと店をたたみ始めているが、興味深いのはやる気のある店ほどばたばたいってしまうこと。品揃えやコーナーの配置などいつもあれこれ工夫していて、店主もきびきびしていた店は次々と姿を消していく。
 で、まだ何となく生き残っている街の古本屋というのは、品揃えもコーナーの配置など始めから知ったこっちゃない、商店というより巨大な物置小屋のような店である。そういう店の場合、経営者はとうの昔に世渡りなんぞは放棄している感がある。それでもどうにか食いつなぐための収入を、どこでどう工面するのかしらとずっと疑問だったのだが。
 近所の公園がホームレスの根城になっていて、段ボールの仮設住宅やズタ袋を乗せたショッピングカートが家といえば家の浮浪者や、それに近い面々がたむろしている。で、彼等がよく公園のベンチに古本の束を積んで何やら品評会のような密談を交わしているのだ。私はその様子とやる気のない古本屋の奇跡的な延命が、関係あるような気がしてきた。
 そしてやる気のある古本屋がばたばたと敗れ去るのは、そうした人々を手下のごとく転がしてまではこの商売を続けたくないというプライドからなのだなとも思った。しかし何でまた私もそんなことに関心を持つのだろうなとも思った。つまりどこぞでコキ集めてきたか知れない古本の束を小銭に変えカップ酒に変えるだけが生き甲斐のホームレスと、今こうして街の古本屋のHPのお通しにこうした駄文をシコシコ書き連ね続けるこの私とどこが違うのかと。夏も本格的になった今頃ズタボロの自分見つめ直して、それでもシコシコやり続けられるのかと。
 いや、やれると思える出来事が最近一つだけあった。水道橋近くのとある昭和クラッシーな古書店にて、私は店頭ワゴンからカフカの『城』と中島らものエッセイ本を選んでうす暗い店内へ。会計所には年季の入った算盤と猫が眠っていた。店主の老人に二冊の本を差し出してそのままでいいっスわとガマ口を出す私の前で、老主人は算盤をいじり出してしばらくフンフンうなると、「両方で○○円でどうでやしょう」とシュールなことを言ってレジスターから金を差し出すのだ。勿論その金を頂戴するなどと非道なことはできないが、老店主はタダって訳にはいかんでしょうと半分ムッとする。
 自分の店で売っている古本をレジに持っていくと換金してくれる店。ブックオフを超えた新システムではないか。こんな店があるなら私だってたった今からホームレスに転身したっていい位だ。違う。ただの痴呆症だ多分。