二十二才の別れは土俵際である

1月23日、家主のエイチよりまだ書いてもいない当コラムの稿料が届いてしまった。稿料といっても小学校低学年生のお年玉位の心付けである。ではあるがその金が生命をつなぐような場面が年に何度かは私にあるのだ四十面下げて未だに。未だに『男おいどん』の世界。サルマタケ食い続けの四十代って。
一方、エイチの方はサイドビジネスの為の何たらいう資格試験にこの程めでたく一発合格とか。そういう時だけさすがは俺の友だちとか前から何かやる男だとなどと軽口叩く私ではありたくもないがひとまず拍手かな。別にエイチという男が全く逆に世間に顔向けできないような不実を犯したとしてもそういう時だけさすがは俺の友だちとか前から何かやる男だとなどと軽口叩く私ではありたくもないが。
今現在そのまんま東と付き合いを絶っているテレビ関係者なんか結構あたふたしてるのかなと思いめぐらす。当の東にはやるべき仕事は山積みで彼等とヨリを戻す戻さないは考える余裕もないのかもしれないが。こういう時に手のひらを返すように先生この度はとすり寄る人間の方がそれも今さらとふて腐れる人間よりも大人なのかどうかとも。
家主のエイチがいずれ本物の出版プロデューサーになってしまった時に私はどうするのかと。もしそうなった時に本来ならちゃんと名の知れた書き手をオファーできるにも関わらずエイチは私をそうした面々と同等にプッシュしてくれるのかとも。それも辞退したいがなと今はまだ思う。けれど実際もっといい年ブッこいてもまだ鳴かず飛ばずサルマタケ生活者でウン十年来の友人がひと山当てたとあってはジッとしていられるだろうかとも。ARBの『さらば相棒』をほろ酔いでうなってられるのも今の内であろう。しかしエイチとは今年はもうそろそろ閉りそうなライブスポットや引退しそうなアーティストを観に行く予定なのでその方の付き合いはまだ続く。カウンセリングの資格取得にも挑むかたわらで四十過ぎの男おいどんと遊覧するエイチの気が知れないが。ある種のガス抜きなのかとも。勝ち進むばかりが人生かと疑問を感じた時にならば敗者とは誰なのだと。あ、敗者いたわと私の元を訪れるエイチを過去何度も私は出迎えてきたのだなとふと私も振り返る。
風見しんごさんは本当に気の毒だねと大人になったエイチは多分マジに私にそう語りかけている。まったくだねと返す私に子を持つ親の気持ちなぞわかるのか本当にとエイチは内心そう思っている。いや、わかんねと私は内心そう思っている。私とエイチのこの変な友情も今年で二十二才。