君には罪はない、罪はないんである

 拙宅に程近い巣鴨、板橋、王子周辺の住宅街をぶらぶらする内に必ずと言っていいほど出くわしてしまうアレ。野菜市場から引き下げたような四輪の台車に鉄柵をつけて赤や黄色のペンキで塗り上げたものに保育園の入園児を乗せて保母らが手押しして周囲を「お散歩」させている姿なのだが。
 80年代の蛭子能収不条理マンガのワンカットのようなその姿を見るたびに私はなんともたまらない気持ちになってしまう。園児たちを手押し車に積み込んだ状態でしか「お散歩」できないのは保育園にそれほど広い運動場がある訳でもないし住宅街はいつバイクや自家用車が飛び出すかもわからないのでうかつに歩かせられない事情からとは私でも想像がつく。が、自分の子供があのようなものにカボチャや大根同然に積み込まれ市街を引きずられていく姿をみてしまったら親としてはどうかと。
 どうかと思うが私に子供はいなかった。手押し車に積み込まれて「お散歩」させられる子供たちの姿に物申すのもお門違いかと。お門違いなままこんな所に一人ごちるのは何だ嫌がらせ?私同様に不快感を持つ人がアレはどうかと思うがということをしかるべき場所に申し出たりした例はないのだろうか。不快感を持つことはあってもアレはどうかと物申すこと自体マズイんじゃないかと思わせる空気があの「お散歩」風景にはある。
 先だってあの手押し車の後をそれとなく尾行するとその先には「働くお母さんたちを応援する云々」といった保育園の看板があった。外目には80年代の蛭子マンガ並にシュールであろうとこっちは切羽つまってるんだよ、帰れ帰れ、ゲラウェイと脱脂粉乳を頭から浴びせられた気分で私はその場を立ち去った。
 上京当時安アパートの個室に学生ばかり5〜6人もが無理矢理共生していた想い出を作詞家、阿久悠が語っていたのは今年初夏のラジオ番組の中か。今思えば壮絶な生活ではあったが「当時は皆そんなものかと思ったから」と不思議と楽しげに振り返っていた。皆そんなものかと思っていた壮絶な生活の中で石原慎太郎の小説の中に登場する太陽族に出逢った若き日の阿久悠。連日のようにスポーツカーを乗り回し銀座のクラブに入りびたる自分と同世代の青春群像に「小説の完成度以前にその経済力にショックを受けちゃって」やっと自身の壮絶ぶりに気付いたという。
 手押し車に揺られた幼年期をオープニングにせざるを得ないバラ色の珍生がその後どこまでバラ色に輝くのか輝くわけもないのか。手押し車をデコトラ化させる以外の知恵袋が行政にあるはずも。キャンギャルが手押しするか。