姫も十六、童も十六である

2月18日、目黒シネマにて『空気人形』を観る。監督、是枝裕和。主演のぺ・ドゥナは去年の東スポの映画大賞で主演女優賞を受賞した。空気人形とは今で言うラブドールのこと。板尾創路演じるファミレスのウェイターが安アパートの同居人に選んだ六千円弱のビニール人形がある朝ピノキオのように心を持つ。心を持って街に出て行くところからを演じるのがぺ・ドゥナ
公開当時の監督のインタビューなどでは画面の中でどこまでを生身でどこまでを作り物で表現するかで悩みましたねというようなことを語られていた。ので、てっきり私はその生身と作り物の問題を生の乳首でいくのか着け乳首でいくのかのレベルでとらえてしまっていた。本作ではぺ・ドゥナはは全編脱ぎっぱなしの姦られっぱなしでありR15指定も無理はないハードな内容である。が、よくある人気女優が初の濡れ場に体当たりの演技を風のマスコミ関連のアオリは本作にはほとんど無かった。だから私も生乳首はあるのかないのか程度の中学生的なときめきを持って本作と向き合ったのだ。
そんな劣性コンジローム野郎の世界観なぞ粉々にしてしまうだけの無常観を本作は確かに持っている。心を手に入れて普通の女の子同様にバイトをしたり男友達とデートをしたりし始める空気人形にはまだこの世は巨大な金魚鉢のよう。やっと実感できた生にとまどうばかりで死については理解を越えているのだ。生れてきた生き物たちがずっと死ななければ地球は生き物であふれちゃうだろと年若な父親のようなことを男友達に説得されてもまだ考え込んでいる。
場所はお台場だろうか。人工海岸で夕陽を浴びながらそのような会話をした後でなぜかラムネの空き瓶に興味を持ち宝物のように持ち帰る空気人形。このシーンがウイスキー色に赤茶けてどこかの名画座でかかるまで自分は生きているかと何となく思った。が、最近の作品は昭和のフィルムのようには劣化しないかともすぐ思った。『空気人形』のような作品を、というか『空気人形』の冷静沈着なリメイクをすべての文明国は現役の超アイドル女優で制作する動きを期待したい。
またそんな快楽亭ブラックみたいなことをと言われてもマジでそう願うばかりだ。安達哲の『さくらの唄』だこれは。韓国のアイドル女優が邦画でこのような優遇を受けることはあってもその逆はあるわけないのかとも。『初恋地獄篇』みたいにまずそこでくすぶる危うい思春期を引きずる毒虫の様な中年男。つまり私への召集令状と言える問題作。