サイテー映画祭も遠き落日である

6月28日、新文芸座にて「恋人たちは濡れた」(73年新日本映像)を観る。監督、神代辰巳。本作をスクリーンで観るのは十何年振りか。二十代後半に亀有名画座では何度も何度も観たがその頃は70年代の青春に中毒状態だったのだ。90年代の前半で日々のBGMはサニーデイ・サービスだったか。若者文化のリヴァイバルは二十年周期というから今時ないようで案外月並みなことをしていたのだ。その頃は遅れてきた青年ぶって主人公のチンピラ役の大江徹に感情移入していたが。いつの間にかその私も本作の中では一番年寄りの映画館の館長役の高橋明ともしかしたら同い年なのかもしれない。自分の女房と浮気している大江徹と飲み屋でバッタリ会った高橋明はお互い刺激になっていいやな、俺もまだまだだよというような軽口で飲み屋のお姉ちゃんと絡み合ったりする。決して気持ちのいいシーンではないが何となくわかる。割と最近のニュースで中学教師をしている四十過ぎの夫婦が嫁が盗撮した女子トイレの画像をコレクションして楽しんでいたという件があった。これも決して気持ちのいいニュースではないが何となくわかるような。そのどうしようもない夫婦の間の感情が。教え子の盗撮画像を夜のスパイスに活用するなぞはサイテーもサイテーである。が、それがあればまだどうにか人並みの男女の営みが続けられるならとサイテー道にアクセルを踏み込んでしまう今時の全然アラフォーじゃない同世代の気持ちが何となくわかる。わかりたくないのにわかってしまう。神代辰巳の作品世界が観客に突きつけるものもそれではないのか。わかりたくないのにわかってしまう時代の最底辺でうごめく男女の痴態にうんうんとうなづいた時から私もまたサイテー人である。生まれ故郷に別人になりすまして戻ってきたチンピラ青年が勤め先の映画館のおカミさんと関係したり行きずりの不良少女を強姦したりするうちに追っ手の刺客に始末される。「青春の蹉跌」のショーケンのようにカッコよく絶命するわけではない。全然カッコよくない本作のラストシーンを青春期になめるように何度も繰り返し観てしまったのは何故だろう。フジテレビ制作のデート向き劇映画を一緒に見に行くジョカノがいなかったからだけか。当時の太眉な婦女子よりも中川梨絵の方が魅力だったからではないか。当時のセクシータレントではTバックスのサトケーだけが興味あったのではないか。中川梨絵に似ていたから。「女は少しおかしい方がいいぞ」と語った神代辰巳の問題ある女性観は私の中では永遠のニュープリント。