あれはある種の異常行動だったかと

1月7日、NHKラジオ深夜便で耳にして久しぶりにしびれた野口五郎の新曲『でも好きだよ』(エイベックス・マーケティング)を聴く。本作は『いとしのレイラ』を七五調でぼかしたような仕上がりの典型的歌謡ロックである。が、J−POP以降そんなありがちだった編曲も消滅しつつあるしそもそも歌謡ロックなるジャンルが存亡の危機にある。『セクシャルとのバイオレット№1』だけが私にとってそれこそ擦り切れるまで繰り返し聴いた真の愛聴盤であることを今私はあまり口外したくない。あれはある種の異常行動だったかと思う。思うができることならもう一度あんな風に夢中で音楽にむさぼりつきたいような。そこへこんな直球ど真ん中の歌謡ロックが他でもない野口五郎から届けられるとは。サビ部分の「でも好きだよ(好きだよ) 好きだよ/どれほど苦しくても」に至るダブルボーカルなどという効果も今どきないがそれも堂々とやれるのは野口五郎だけだろう。効果はてきめん。そして恥ずかしい。『セクシャルバイオレット№1』を擦り切れるまで聴いていた頃の自分が今も目の前で白目をむいて首を振っているようで。本作に反応している姿を私は他人に見られたくない。そのくらい極私的なできればプライベート盤にとどめておいて欲しいような「いい歌」なんである。「あゝ 心が怖い/愛しさが募るほど/あゝ 自分を責めて/戻れない夢を見る」というサビ前の詞は歌謡ロックの快楽ともう生涯離れられない私のような男女すべての心情を歌い上げている。まだ家庭円満だった頃の藤圭子が自宅で得意の古賀メロディーをつま弾くと夫と娘はともに転げまわって笑ったという。本作『でも好きだよ』を今どきの若者に強引に聴かせれば転げまわって笑いだすだろうか。五郎とならば笑われてもいいが。などと目頭を熱くするほど本作には衰退する歌謡ロックとの心中を決意させるだけの説得力がある。本作を聴いて今どきの若者同様に転げまわって笑ったふりをする同世代なぞ私は信用できない。それは何かを隠蔽している態度だと思うのだ。何かとは私にとってのかつての異常行動のような何かである。誰しも心底好きな何かに夢中で飛びつく己の姿を他人に見られたくはない。が、それでも我先に堂々と飛びついて見せた勇者には誰もが拍手を送ってしまうものなのだ。56年生まれの野口五郎は満57歳である。よくぞ『でも好きだよ』と飛びついてくれたと拍手を送りたい。私は本作をできればビニール盤で何度でも擦り切れるまで聴いていたい。歌謡ロックはまだあと10年は持ちこたえるのでは。