なかにし礼はその何かを大奥に

2月4日、なかにし礼 著『歌謡曲から「昭和」を読む』(NHK出版新書)を読む。作詞家、なかにし礼が「ヒットメーカーにしかわからない感覚」で昭和歌謡の誕生から終焉までを検証する。本書のなかで私が面白く読んだのは後半にきて段々なかにし礼の作詞教室みたいになっていく“第7章すべての歌は一編の詩に始まる”の項である。作詞家に大切なのは「ひらめき」でありその対極にあるのは「分析」である。だが「大衆が何を求めているかは分析ではわからない」と言いきる姿勢にはヒットメーカーならではの自負と凄味を感じる。「分析」つまりマーケティングやデータなどは必ず過去に起きたあれこれから引き出したものである。が、〈ひらめき〉とか直観と呼ばれるものはたった今からその先の未来をつかみとったような気にさせる何かである。なかにし礼はその何かを大衆に突き付けて絶賛された実績がある。が、実は25年間のキャリアのなかで書いた約三千曲中ヒットしたのは約三百曲で「今もカラオケで歌われる曲は百曲くらいか」なのだそう。それだけに当てたときの感覚というのか行ける感じ、正に〈ひらめき〉が我が身に降り立った瞬間にはもうその曲はヒットしているかのような手応えは忘れがたく実際〈ひらめき〉を感じない作品が予想外にヒットしたことなど一度もないとか。その代表例として『石狩挽歌』を挙げてレクチャーが始まる。「ごめがなくから にしんがくると/あかいつっぽの やんしゅがさわく」と耳では聞こえる頭の詩は文字に起こせば「海猫が鳴くから ニシンが来ると/
赤い筒袖の ヤン衆がさわぐ」である。耳で聴いても呪文か暗号のようで意味がわからない。しかしそれこそが狙いで作者はサビ部分の「今じゃさびれて オンボロロ オンボロボロロー」に決定的な〈ひらめき〉を感じたのだ。ゆえにサビ部分以外は「極端に言えば、音の連なりとだけ聞いてくれてもいいと思っていた」ので舞台となった北海道、小樽でも昭和戦前のニシン漁を知る世代にしか通じない俗語を連発させたのだ。呪文か暗号のような意味不明の言葉の漂流に振り回された後に「今じゃさびれてオンボロロ オンボロロー」という一行をようやく聴きとる者はそこで安堵する。それらの言葉は今では過去の遺物であり廃棄物であるという一行にやっと安堵する感覚。その感覚は自身もやがて遺物化し廃棄されるその先をまだ知らない。知らないからこそ安堵できるのであって〈ひらめき〉はそんな無自覚さ、幼稚さの中にしか棲めないのだ。キャリア75年は記録的長寿だ。