公開当時にはなんだかなあとも

12月16日、『あ、春』(98年トラム)をDVDで観る。監督、相米慎二。01年に死去した相米慎二の遺作は本作の次に撮った『風花』(01年ビーワイルド)である。が、『風花』は劇場で一度観たきりDVDで観返す気がしない。何やら具合の悪そうな映画だと私は思う。体の具合の悪い者、もしくは深酒した翌朝まではまだ元気だった者が昼過ぎには宿酔いの波に飲まれて溺れていくような。本作『あ、春』はまだ波に飲まれる前の妙に元気で新鮮な空気を孕んだ心温まる作品を当時のひねた映画好きはハートウォーミング系、優しい気持ちになれる系などとわりと小馬鹿にした口ぶりでスル―していた。が、それまでの相米ファンとはまさしくそんなひねた映画好きであり本作への反響も複雑だった。佐藤浩市演じる逆玉婚に成功した証券マンの元に山崎努演じるアル中の浮浪者が生き別れの父親だと名乗りを上げて食客になる。だが富士純子演じる元妻に血の繋がりを否定され、つまり元妻と愛人との間に生まれた息子に甘えていた醜態に気づかされ愕然となる。その直後、病に倒れた「父親」のつもりだった男は急死するまでのわずかな日々に「息子」と「孫」が可愛がっていた鶏の卵を病室のベッドで温め孵化させた。その場面に私がほっこりと涙するようになったのはわりと最近である。公開当時はなんだかなあとも思った。本作には没になった卵が孵化しない結末も撮られていたという。でもまあ孵化したことにしてほっこり終わろうかという選択は甘口に過ぎるのではと当時のひねた映画好きを落胆させていたが。いずれは没バージョンも観られる復刻DVDなども出るのかもしれない。貧乏性でそうした特典映像の類は全編観てしまう私だが昨今の温室化した撮影所で万全を期して撮影されるモブシーンには拍子抜けしてしまう。ならば本当に生身でむき身の俳優が危険を顧みず挑んだモブシーンが観たいのかと問われるとそこは複雑なのだが。相米慎二の初期作品、とりわけ十代の俳優を起用した作品では何の命綱もなしに危険極まる撮影に果敢に挑んでいる。疑闘や画像処理の技術が向上するにつれ初期の相米演出のような命がけの緊迫感は造り物に追いつかれてしまう予感が90年代の終わりにはもうあったと思う。相米慎二が亡くなる直前まで撮ろうとしていたのは『壬生義士伝』という立ち回り中心の時代劇だった。命がけの緊迫感で勝負するのはもうやめる。やめてベタな時代劇の立ち回りを撮る。そうした選択が更なる過激な新境地を開いていたかどうか。