もっと言えば後半の後半、もっと

11月17日、佐々木敦 著『ニッポンの音楽』(講談社現代新書)を読む。本書は70年代からの日本のポピュラー音楽史を十年区切りに振り返り物語化したもの。物語とは『成りあがり』や『GLAY物語』のように独自の視点で物語るニッポンの音楽の寓話のこと。だから読む人によっては異論反論や記憶違いを指摘したくなる向きもあるだろう。けれどそこは史実に寄り添ったフィクションというかつまりは物語なのだ。64年生まれの著者が「中田ヤスタカの物語」までフォローしている若さと体力にもおののくが。物語の第一幕にはっぴいえんどを登場させるところにやはり批評家筋は皆そうなのかと感ず。つまりはあの「日本語ロック論争」である。現代の一般常識としてロックの始まりはビル・ヘイリーの『ロック・アラウンド・ザ・クロック』辺りで落ち着いている。ならば日本語のロックの始まりも和製ロカビリー歌手の歌ったその辺りに落ち着くかと言えばどうもそうはいかない。主に批評家筋が言うところはそれらはまだ英語詞を日本語に訳しただけであり翻訳小説や洋画の字幕と同じものだという指摘。『ダイアナ』や『監獄ロック』は訳詞なのか。翻訳小説や洋画の字幕と同じものなのか。そんなちゃんとしたものなのかと私は思う。ちゃんとしてないものにも一応の鑑札を付けて排除してから再び環境を整えたがるような姿勢には抵抗を感ず。そもそも日本語のロックははっぴいえんどから、つまりは松本隆からという通釈が市場に出回ったと思えるのがゼロ年代後半からでは。もっと言えば後半の後半、もっと言えば阿久悠が他界した年を機会に始まったのでは。松本隆阿久悠の次に重要な日本のポピュラー音楽の登場人物だと私にはあまり思えない。次に登場する人物を待望する以前に誰しも日本のポピュラー音楽には幕切れを感じていたのでは。それは歌謡曲のことでしょうと問われれば勿論そうだが。本書で著者が物語るのはいわゆる昭和歌謡ではなくJポップ。Jポップは70年代に生まれ90年代に成人し今日ニッポンの音楽から退場しかけているのではというのが本書の視点である。であるが私にはゼロ年代後半から今日まで続くやっぱり松本隆キャンペーンのような動向が何となしに嫌なんである。ボブ・ディランの「文学」にまともに向き合ったこともないのにハルキストって何なんだよなあとやっかみたい気持ちと同じようなものだが。猫好きの有閑サークルに猫がどうかしましたか猫がと首を突っ込みたがる近所の偏屈おやじのようなものだが。