あの布コードが何かイヤラシイんである

 食玩。古くはグリコのおまけ付きから始まり今日に至るプラ玩具付きのお菓子。あれも近頃では行きつくところまで行きついたようなエスカレート振りっちゅか完成度異様に高くて参る。大人が真剣に集めたがるのもわかるよなァと仮面ライダーのサイクロン桜島モデルを組み立てながらしみじみ実感。しかしこのようなものに夢中になっている間に世界中の子供たちに愛される童話作家への道は遠のくばかりなのでサイクロンは台所の戸棚にうずめる。お子様に夢と希望を与えるのはこっちの台詞でいと一人ごちる。でもサイクロンはカッコイイ。でも世界中の子供たちには愛されたい。そんなことを考えながら机に向かう。机じゃなくてコタツ。小さなコタツである。少年マガジンが6冊並ぶか並ばないか小ささ。でも私が憧れる文士達はコタツで書くようなので私もコタツで。何かイマジネーションを刺激するものがコタツに?それは実感できないが等身大の自分を書くにはもってこいであろう。等身大になるしかないのだ。コタツで何を気取ったって、ねえ。

 官能小説を書くのにもコタツは良いかもしれない。コタツはエロ。高校時代の演劇部の稽古場は畳部屋だった。ある日その畳部屋にコタツが持ち込まれた。女子部員はさっそくキャッキャとこれにあたり、あんた達も早くと我々男子部員に手招きした。が、我々男子は後ずさりした。コタツが持ち込まれた時点で何やら甘酸っぱいモノが体中に込み上げていたのだ我々は。甘酸っぱい何かが。ティーンエイジ・サワーが。そのサワーはコタツに皆で体を寄せ合った頃にはさらにスパークリングしていた。男子も女子も。何となく新婚旅行のコントで仲居さんがそれじゃごゆっくりヒヒヒッと襖を閉めていった後のぎこちなさに皆包まれていたのだ。それで今でもあのコタツと同じ安物のしょぼいコタツにこだわりを?こだわってはいないがコタツに入れば何か根本はるみに手招きされたらその時点でティーンエイジ・サワー復活しそう。かなり発酵しちゃってますが。

 話は食玩にちょっと戻ってまたそれるがお菓子付きのCDというものが最近ではある。お父さんお母さん達の思い出のヒットメロディーなどといったくくりのあの企画物スナック菓子である。私は20代の半ばからGSに熱中していたがそれらは実際は私が生まれた頃の流行音楽である。どっかで聞いたような胎教的ノスタルジーから私はGSにのめり込んでいたのだが例の企画物は当たり前に懐かしい。そこがツライんである。懐かしのメロディーを本当に懐かしがる節目の年代に自分がもう立っている。手ぶらで立ってやんのといった世間の目が痛いんである。お菓子が欲しかったから久保田早紀のCDはお父さんにあげるなどと憎らしいことを言う愛娘も私にはいない。いなくて結構とも思えないが私が憧れる脚本家は51歳まで独身で台湾から帰って来ないんである。