誰の今夜も見て見ぬ振りである

 今時の大学の学食がどんな様子であるか私は知らない。私の学生時分の学食はまだ昭和エレジーぷんぷん臭う小汚い空間であったと今にすれば思う。食券の自販機というものがあった。あったがそれに小銭を投じて希望する定食のボタンを押すと出てくるのはプラスチックの丸い御札のような物。チケットじゃないではないですか。御札ではないですか。使い回し可能なメリットが狙いなのは見え見え。そして調理場も見え見え。現在の日比谷図書館の地下食堂はまだこのスタイルを残しているが別にありがたくは。そして各テーブルに備え付けの灰皿はアルマイトでちょっとわざとらしい位にどれもぼこぼこに変形していた。変形させた学生は多分、下駄を鳴らして奴が来るような連中に違いない。そういう空気がまだ残っていた。何やら中途半端に。
 フォークギターこそ持ち込まぬものの突然歌を合唱し始める軽音楽サークルらしき集団も一度見かけた。その歌はチューリップの「心の旅」であった。当時で既に十数年前のヒットソングのはずである。有頂天のカバーが小ヒットしていた時代に重なることは重なる。が、その軽音楽サークルの中では重なっていなかったと思う。「心の旅」はチューリップである。あのアレンジ。あの詩世界にキュンとなる世の若者、いつの世の若者の青春期にもだから今夜だけは君を抱いていたいような今夜は存在しない。自らの青春期にはそんなドラマは起こり得ないからこそキュンとなり合唱したり。肩を組んで噴水になだれ込んだり。
 さて、「くりぃむレモン」はどうでしょう。80年代後半に世間を騒がせたロリータアニメの実写版を、山下敦弘監督が準備中であることを知ったのは前作「リアリズムの宿」を観た直後だった。手元のフライヤーのエキストラ募集云々から割合こじんまり撮るのだなと感じた。こじんまり撮るからエキサイティングにもなれるのだろう。自主映画で自称映像作家が自称映画女優を脱がしにかかるようないけしゃあしゃあとしたエロな現場作り。何というかそれだけでOKと思ってしまった。「リアリズムの宿」の次にもう「くりぃむレモン」今撮っていますといういけしゃあしゃあ振りだけで私には充分エキサイティングであった。
 まだ観ていないのである「くりぃむレモン」を。シナリオ誌を読み終えた所で明日の夜にでも。楽しみである。「心の旅」の心境である。大学時代は腹違いの可愛い妹と同居しつつ連日乳繰り合ってましたけど何ちて。そんな青春期大量発生して良い訳がないんでやはり観て楽しむものかと。十七才の生脚かあなどと。