眠りの坂道にすら家電が乱立である

9月21日、新文芸座にて「名匠 成瀬巳喜男の世界へ」『めし』(51年 東宝)と『山の音』(54年 東宝)を観る。どちらも成瀬作品の中では有名な2本立てなのであるが。成瀬特集に過去何度も足を運んでいたはずの私であるがどちらも何となく観たような観ないような。ほぼ同時期に同じ顔ぶれで同じ原作者の作品を映画化しているからかもしれないが。
『めし』の中でチンドン屋の夫婦が行く姿をやっぱり夫婦ねあの歩き方などと原節子がぼんやり眺めるシーンでやっとあぁ前に観たなと気づいたり。田中小実昌の映画コラムでこういうことがあるからボケるのもトクがあると書かれていたのと同じシチュエーションかとも。と、いうことは私もボケ老人の世界に片足を踏み入れているということかとも。NHKのラジオ深夜便を聴きながら寝床につく習慣が抜けなくなったせいだろうか。病院のベッドでつれあいの介護をしながら懐かしの昭和歌謡に聴き入っていますなどといったリスナーからの便りを読む熟年パーソナリティの語りに吸い込まれるように眠る。
同じようにしてその晩もひとまず眠りにつくお仲間たち。かってはこれが若手お笑い芸人やミュージシャンによる投稿ギャグとエロ話の応酬でも代用できたことが不思議に思えるように。試しに民放局で今もそのような生ツバ飛びかう番組にダイヤルを回すと真夜中に競馬中継を聴いているような感が。深夜便のひたひたとした静寂感になじみきった私だから成瀬巳喜男の世界にもまた吸い込まれつつあるのかとも。
会話も音楽も効果音も50年代と今とでは濃度がまるで違う。フィルムが息つぎをするようなブツツという音も本来ノイズなのに私のような者には心地よいのだ。これはいかがなものかと。阪本順治監督の『闇の子供たち』観なくていいのかよと。タイで起きている幼児買春を扱った大問題作は観光地・タイのイメージを壊すとして現地の映画祭から拒否されてしまった。それらすべて今現実に起きていることで「渾身の社会派映画」にもこれ以上のことはできそうもないのだが。
成瀬作品『めし』も『山の音』も中年夫婦のすれ違い劇が表面上だけ元のサヤに収まる何も解決はしない倦怠期エレジーであった。どうせ何も解決しないのだったら『闇の子供たち』の袋小路にこそ向き合ったらどうなんだと。どうなんだと思うが実際タイの幼児買春の当事者である日本人層の顔が昭和50年代にかぶる生活ぶりの私には見えてこない。マンションのゴミ置き場にニシキヘビの死骸なぞ出勤ついでに捨てそうなエグゼにこずかれる日々では。