伊藤克信が全篇いい味出し過ぎの

1月25日、新宿ピカデリーにて『の・ようなもの のようなもの』(16年松竹)を観る。監督、杉山泰一。本作は11年暮れに急死した映画監督、森田芳光出世作『の・ようなもの』を弟子にあたる杉山監督が同じく森田組出身の堀川正樹の脚本でリメイクしたもの。35年前に公開されたオリジナルとほぼ同じ顔ぶれが集結した同窓会的な作品なので元ネタに思い入れがなければ楽しめないかもしれない。クレジットに原案 森田芳光とあるように本作の企画自体は森田監督もいずれはやりたいと周囲に語っていた模様。そのイメージ通りの内容かどうかは別として元ネタに思い入れのある私には充分楽しめた。まず伊藤克信演じる主人公の売れない落語家、志ん魚がとっくに落語を捨てて放浪の身という現実味ある設定がよい。主人公ながらあの人は今的なうらぶれた役どころをその後の役者人生もあまりぱっとしない伊藤克信が哀愁たっぷりに演じる姿に胸が熱くなる。兄弟子だった尾藤イサオ演じる志ん米もでんでん演じる志ん水もストーリーの上でも師匠と呼ばれる身になっているし役者としても大成している。小林まさひろ演じる志ん肉と大野貴保演じる志ん菜は落語に見切りをつけてかたぎの職に就いた設定だが現実に二人とも芸能界を引退している。一人だけ今だに煮ても焼いても食えない永遠の二つ目、志ん魚を一門の後援会長の機嫌取りに高座に引き戻そうという話が持ち上がる。そこで志ん米の内弟子である松山ケンイチ演じる志ん田が行方不明の志ん魚の捜索にあたる。が、さほど役に立たないうちに志ん米の娘である北川景子演じる夕美が志ん魚の居所をつかむのだが。落語を捨てたことを後悔もせず今は独居老人相手の便利屋をして食いつなぐ志ん魚は復帰話に乗らない。後援会長と顔をつなぎたいだけという大人の事情を隠してあくまで友情から手を差し伸べるポーズもばれそうな兄弟子たちは志ん魚の説得を志ん田一人に押しつける。志ん田は志ん魚のアパートに押しかけ強引に便利屋の助手に。「アンチロマン」派の森田組の姿勢を熟知している杉山監督だからこそ虫のいい展開にはまずならない。が、それでも志ん魚は志ん田に義理を感じ最後の高座に。そこで極めつけの新作落語を披露してやんやの喝采を浴びるかと思えばさにあらず。よくて内野安打といった出来栄えの高座で面子を保つとまた風のごとく去る志ん魚。永遠の二つ目にもまたそれなりの誇りとプライドがあったのだ。伊藤克信が全篇いい味出し過ぎの秀作。