勝新太郎と同じ65才で死去した著者の

7月30日、宮沢章夫 著『長くなるのでまたにする。』(幻冬舎文庫)を読む。本書は劇作家の宮沢章夫が15年に発表したエッセイ集を文庫化したもの。著者は昨年の9月に亡くなったが本書は追悼企画ではなくトミヤマユキコの解説も著者の精力的な仕事ぶりを身近で観察し賞賛している。勝新太郎と同じ65才で死去した著者の生きざま(という表現は不似合いだが)はどこか勝新にも通じるものが。自分にしかできない仕事をやり続けてすっかり消費される前に舞台を去った後ろ姿が。演劇もやっていれば大学で教えてもいる合間に書かれたエッセイはいつも切羽詰まって発信されながらもちゃんと面白い。そのドタバタぶりに読者の方も乗せられていたというのか演出家でもある著者に演出されていたよう。その読者から編集部宛に届いた「恋愛相談」に著者が嫌々応える章は晩年に担当していたラジオ番組を思い出す。その番組にも時折突拍子もない「恋愛相談」が届き泡を食った著者が知るかばかものなどと応える場面がおかしかった。が、別に著者が男女のことに格別スマートな紳士というわけでもない。気になるコンビニの女店員にしつこくつきまとわずシフトを知りたいという相談にトイレの清掃当番表に彼女の印が押してある日が出勤日だと教えた途端にその日の放送は空気がどんよりとなった。相当な「反響」があったと思われる。「アキオの小説にはエロがない」と父親から助言され思案する著者だが。90年代に流行った演劇少女ではないエロチックな少女たちの舞台にナウ好きの著者も本気で参入していたら演劇人としては消費されてしまったかも。原宿の真ん中で公演してもださい演劇ファンが堂々と観に行けるバランス感覚が著者の作風にはあった。逆にオシャレ人種が別役実に注目したりする椿事も起こしたし。その著者が東京に三十年以上住んでも行ったことがなかった町が錦糸町というのが興味深い。ナウ好きのアカデミシャンでさえ足を踏み入れにくかった町、錦糸町。バブル期にアメカジに対抗して錦カジなどと称されたファッションがあったが。どんなファッションかと問われたら私にはすぐわかる。ノンブランドの一応はスーツに見える上着の袖をまくりコンバースで疾走していたあの頃。洗練なんかされてたまるかよといった気概をそれが仕事になるまで気づいていなかった。が、十人並みに今風でいられたらそれで満足だった自分もまた愚かしい。宮沢章夫はやはり敵でも味方でもなかった。