昔はそんなものだったという史実は

5月16日、橋本治 著『その未来はどうなの?』(集英社新書)を読む。本書は作家、橋本治が2010年の秋に病に倒れながら「自分の体をなんとかするのは自分だけだ」という信念から書き続けた渾身のエッセイ。冒頭の『テレビの未来はどうなの?』の章で「テレビは直接民主主義で成り立っていると言ってよろしかろうと思います」と著者は云う。テレビでやるなそんなものと私が思うそんなものとは誰の思うそれとも同じだろう。今はアウトでも昔はセーフだったそれもいい年になればおぼえている。日曜の昼下がりに生きた蛇の頭を食いちぎる奇人変人を家族で楽しんでいたのも昔の話だが。昔はそんなものだったという史実は封印されていいのだろうか。昔があって今があるんじゃないのかと私は思う。『テレビ探偵団』のような企画を放送できない場面は法廷イラストや実況をはさんでも復活させてほしい。『ドラマの未来はどうなの?』の章では「もしあなたが『最近おもしろいドラマってないな』と思っているのだとしたら、ドラマの中に『生きることへの指針』を求めている可能性大ですが」と著者は云う。90年代後半、超カッコいい先生がダサイ大人たちを秒殺で仕置きしてくれる学園ドラマが流行したが意外に悪影響はなかったよう。何の代償もないところでただ暴れても空しいだけという指針を得て成長した若者は多かったのか。『男の未来と女の未来はどうなの?』の章で美人の定義を語る著者の「見てくれは美人なのに、あまりにも愚かなので気味が悪くなる」という表現に共感す。思春期以降の私は「結構な美人なのに結構な不良」にアレルギーなのだ。結構美人で結構不良、それは今時の在野アイドルの主流ではないのか。ならば自分はもう若者と話が合わないというだけのことか。愚かな美人が気味悪いという感覚を正直に口に出すと顰蹙を買う時代もやがて来るのかも。著者はさらに「私が美人であっちゃいけないの?」と女から言われて「いけない」と言わない男の「やさしさ」についても語る。男の「やさしさ」は今やエチケット化しているよう。美人のグループに必死でぶら下がる不美人を指差してバカにするようなことを今の男は冗談でもしなくなった。それは本当に「やさしさ」なのかという問いも内包しつつしなくなった。多分それも男自身のための努力であろう。時に自分が嫌になるというやつだ。が、嫌になった自分を切り捨てるというその努力はひたむきな不美人に捧げられたものであったかどうか。