著者もナンシー関も時期を同じくして

1月24日、中島梓 著『夢見る頃を過ぎても』(ちくま文庫)を読む。本書は評論家、中島梓が94年から95年まで『海燕』誌上に発表した文芸時評を収録したもの。序文に―その昔十年前に日本読書新聞というところで「同人雑誌評」を一年間やり―と記されているのを読んで中島梓もそんな左翼系メディア出身なのかと気づく。かつて『写真時代』誌の赤瀬川源平渡辺和博の連載対談で「学生運動もおたくでしょ」「まぁおたくだね」などと語られていたことを思い出す。『ガリバーばななを読む』の章では金井美恵子の「吉本ばななにせよ山田詠美にせよちゃんとした評論が出てこない」という発言に著者は共感する。私は以前デーモン小暮が日本のロック史に聖飢魔Ⅱ横浜銀蝿の立ち位置がないのはおかしいと発言していたことを思い出す。充分売れているし露出しているのに評論家筋には丸無視される作家というのはいるが。それが批評に値しないということを批評してみろという主張は半分アニメキャラ然としたアーティストと向き合えない音楽誌にも今なお響くだろうか。『欲望という名のファンタジー』の章で「フライデーとスポーツ新聞しか読まない男が全部の文芸雑誌を読む男より男らしいといっているのではないが」と嘆く著者に賛同した読者は今も同じ気持ちだろうか。正月のNHK時代劇『いちげき』の勝海舟のキャラクター立てにフライデーとスポーツ新聞しか読まない男はおおいに賛同しただろうか。権力者なんて結果が見えたレースにのみ賭けるお調子者という社会認識に賛同できれば楽しめる居場所とは文学を必要としない男たちだけのものか。只のお調子者が権力者になれるなら誰でもなれるのではないか。当然自分にもなれるのではないかという思い込みが日々の燃料になる男が更に増え続けなければフライデーとスポーツ新聞も危機なのでは。『ベストセラーの構造‘94』の章では著者には全く興味のないベストセラー本をあえて全冊読んでみる試みが敢行される。同時期にナンシー関が自分には全く観る気もしないライブに集まる観客をレポートする連載があったが。著者もナンシー関も時期を同じくして何かと決別していたよう。本書のあとがきに記された日付は95年4月だが前の月の地下鉄サリン事件については触れていない。劇作家の岩松了はなんであんな事件がものを書きにくい世の中の始まりなんだと反発したが。私にはおたくの母であり戦士のようなイメージの評論家、中島梓というより作家、栗本薫もそう考えていたのかどうか。