嫌われると承知の上の炉悪趣味が

4月19日、根本敬 作・画『生きる 2010』(青林堂工藝舎)を読む。本書は漫画家、根本敬が2010年に描き下ろした『生きる』と同シリーズを80年代に『平凡パンチ』に発表した旧作を大宅壮一文庫で発掘し「とにかく全部」収録したもの。水木しげるが貸本時代の旧作を古本から複写して全集に入れた荒技を思わせる。巻頭カラーの『ズボン塚の由来』には築50年のアパートに同居し一本しかないズボンを交代ではいて日雇い仕事に出向く中年コンビが登場。二人が利用する公園の自販機はオール80円。都心の駐車場の片隅によくある各ブランドが入り乱れた激安自販機である。あれは一体どこが運営しているのか。法律上は露天商のような扱いなのか。根本漫画は闇金や地下風俗などのブラックな市場は描かないがそれらに引き摺られて生きる人々を正面から描き続ける。引き摺る側は代替わりしても引き摺られる側は常に村田藤吉一家という本筋は40年近く同じ。昭和世代の私がズボンをズボンと呼ぶ際には相手を選ぶ。デニムパンツをGパンと呼ぶ際と同じく若者ぶらずお気楽にといった意識で。逆に上着、下着と呼ぶ代わりにアウター、インナーなどと呼んでいるところを同世代以上に目撃されると気まずい。根本漫画に没入する際の私は完全にズボン感覚だ。『優越感』の回には村田藤吉に初めて自分より劣等生の同僚が現れて「背中シャツが出てますよ」と生涯初のモラハラを行う姿が見れる。当然というか夢オチに終わるのだが。『黒い警官』の回では村田が強盗殺人の現場を押さえるも事情を聴く警官の一人が犯人だと証言できず怖々自主してしまう。当時ブレイクしそこなった爆笑問題の反権力ネタを思い出す。昨今あまりウケないこのジャンルだがそもそも『こち亀』だって反権力なのではないか。二部構成の『謎の殺人事件の巻』では宇宙人に脅迫されて言われるままになる村田が仕事中にウンチをもらして泣く。相原コージ作品の言いなりキャラ『人命刑事』と酷似しているが。当時スピリッツ誌に登場する『人命刑事』を面白いよと女友達に薦めると下劣じゃないと白眼視された私。嫌われると承知の上の露悪趣味があったのか。相原コージを擁護する女友達が欲しかったわけではないのは確か。もしかすると自分は本当は根本敬の漫画が大好きで本書の巻末『最低の奴ら』に登場する銭湯の一番風呂にグラビア誌を持ち込んで思い切りセンズリをかく少年がうらやましいのだと告白したかったのかもしれない。白眼視で済まない妄言だったとしても。

またぞろ振り出しに戻れたのは実に

4月12日、シネマート新宿にて『GOLDFISH』を観る。監督、藤沼伸一。本作はアナーキーのギタリスト、藤沼伸一がバンドの全盛期から転落と再出発までをみずから描いたもの。メンバーのマリこと逸見泰成は17年に自死したが詳細は公表されていない。身内がそっとしておいてくれという件にバンド仲間がどこまで踏み込めるかだが。本作のなかのアナーキーは「銃徒」(と記してガンズ)なる架空のバンドとして描かれマリはハル、伸一はイチとして登場する。傷害事件を起こして表舞台を去ったハルには死神が付き纏っていたという寓話的な設定は「その人に近しい人が観て嫌な気持ちになるようなことはやめよう」という配慮らしい。町田康演じる死神が「伝説になるのも遅すぎでしょう」とハルに語りかける場面の戦慄。最早どうあがいても仕方ないという諦念と死の誘惑。どんな役でも達者に誠実に演じきる北村有起哉はハルそのものだが。親衛隊をバックに「俺達は暴力を肯定してはいないんだ」と主張する若きハルを演じた山岸健太の横顔には正しく逸見泰成が見えた。横浜銀蝿沖田浩之同様に案外倫理的なことを言う不良がまぶしかった時代のアイドルだったハルだがあれを今さら繰り返すのは道化にもならない。が、そんなことは自分以外にはどうでもいいことなのだ。再び全員揃えば出資してやるというスポンサーに対して「金目当ての見世物」をニヒルに演じようとするイチと演じてきたわけじゃない自分の居場所がわからないハルの訣別。他のメンバーとはプレイヤーとしての技量に格差が生まれ自分の担当は「パンク精神」といった展開になっても身一つでステージに立てるか。海外にはそんな観光物産化したパンクバンドも珍しくない。が、デビュー当時には日本のパンクを金出して聴く奴もそうはいないと見下された銃徒のメンバーにそれはできなかった。ではなぜできなかったのかこそが今も難問なのだ。観光パンクお断りだねと本当は声を大にして言いたい日本のパンクの悲哀に比べたら本作の不細工さや悪ノリなぞ問題ではない。アナーキーのインタビュー本『心の銃』のなかで藤沼伸一はヤクザ映画について「カッコよくヤクザを見せてはまずいと思う」と応えていて中学生の私は震えた。そんな自分もツッパリ商品や暴走族の書籍に散財していることは忘れてそうだ何かがおかしいとイキり立っていたが。本作は新人監督ゆえ完成度は低くとも充分な手応えのヒットでアナーキーのデビューアルバムと同じ反響。またぞろ振り出しに戻れたのは実に職人技というべきか。

本作はいつ観てもそんな良い映画

1月29日、『TATOO[刺青]あり』(82年ATG)をDVDで観る。監督、高橋伴明。本作は79年に起きた三菱銀行人質事件を素材にした犯罪ドラマ。80年代初めまで凶悪事件を脚色した実録物とも呼べる劇映画は量産されたが。事件の周辺にいる人々に配慮して今ではあまり作られなくなったのかもしれない。が、近年でも作られる実録物はいずれも極めて後味が悪い。実在の凶悪犯をモデルにした映画が心温まる良い映画では不味いだろうと言われればその通りだが。本作はいつ観てもそんな良い映画なのだ。宇崎竜童演じる主人公、竹田明夫がキャバレーのマネージャーとして働く場面。給料日には仲間たちに百円単位の借金も律儀に返す姿のもの悲しさ。宇崎竜童の自伝『バックストリート・ブルース』によれば自身も「音楽やってるんだか借金払ってるんだか分からない」自転車操業が百恵ちゃんに曲を書く頃まで続いたという。「君のそういう所が店の売り上げに繋がっとるのやな」と明夫を可愛がる店長役はポール牧。明夫にとっては人生を狂わせた魔性の女を演じるのは高橋伴明夫人の関根恵子で監督にとっては本作が勝負のメジャーデビューと野望と現実の入り混じった展開がなぜか妙に暖かいのだ。「30歳までに何かデカいことをやる」約束を渡辺美佐子演じる母親と誓う明夫だがそれが犯罪であることはお互い口に出さない。犯罪者でもいいから出世してみろというのが当時の多数派の本音だったようにも。現在同じような凶悪犯に対して男のけじめだったのだろうとは誰も思わない。が、一週間有名になれたら懲役太郎も上等だと凶行におよぶ若者には今少しの母性とエロスがあればそれはさけられたのではないか。明夫が男の面子にかけて追い求めた女とはまた別にやくざっぽいだけで充分魅力だと離れない女友だち役を演じるのは太田あや子。そんな当て馬的な準ヒロインの方が引力がある演出が得意だったのが時代の寵児森田芳光でピンク映画時代の高橋伴明とはライバル関係。ヒロインに責任取るか準ヒロインに責任取るか選ぶだけなら自由だがヒロインに責任取ると言うだけ言ってしまう方が男らしいと私は思う。「男らしいってわかるかい」という問いかけが本作のテーマなのではないか。「女に働かせて遊んでる男は最低」と断言しながらもDVにおよびヒモ生活に甘んじている主人公。「笑えるのか?俺を、」という宣伝コピーが忘れられない本作はキネマ旬報ベストテン第6位。結構な数の最低人に拍手で迎えられてしまった。

世が世なら串田アキラみたいになって

1月25日、山口富士夫の『Tumbling Down』(17年 Good Lovin)を聴く。本作は84年、渋谷屋根裏での山口富士夫率いるタンブリングダウンの演奏を恐らく家庭用ラジカセで録音したもの。音質は劣悪である。山口富士夫の楽曲はガレージパンクやノイズアバンギャルドとは異なって劣悪な録音状態もまた味わい深いというものでもない。もっといい音で聴きたいし何より詞が聴きたい。が、『ウルトラセブン』に登場する無名GSのように退廃した若者の象徴としての国産ロックがまだ原形をとどめている貴重な音源ではある。66年生まれの私にとってロック野郎のイメージとはエスニックな服を着てアフロヘアを振り回しながらギターを弾く痩身の男といったものだが同世代の坂本慎太郎の写真を初めて見たとき「これは!」と思った。正しくロック野郎だったそのテキストは若き山口富士夫かもしれない。80年代後半にソロで復活した山口富士夫のライブを私が渋谷クロコダイルで観た際も富士夫伝説に吸い寄せられた学習済みの「不良」が集結していた。本作でも「おたまじゃくしはかえるのこ!」などと茶目っ気も見せるフジオはにわかに急増中の若いファン層が欲しいのか欲しくないのか微妙な感。GS時代にもカバーしていた『My Girl』にはさほど加工されていなくとも濃厚な手作りのサイケな音像が。60年代にこんな音を出しても皆キョトンとするばかりだったろう演奏を80年代の若いファンはどう受け止めたのか。私が山口富士夫のボーカルを初めて聴いたときは男臭いアニソン歌手のようにも感じた。世が世なら串田アキラみたいになっていたかもしれないフジオのボーカルは大人っぽい。「ロックミーオールナイローン」とフジオに呼びかけられて「サイコー」とはしゃぐ観客は無我夢中で大人ぶっているのだ。裕也さんの「シェゲナベイベエ」同様に時代背景なんて関係ないローティーンにまで真似されてこそ本物なのか。巷でいわれる山口富士夫ならではのタメの効いたギターとはなんぞや。タメとは溜めであり一拍たくわえることでは。前の音と次の音の間を間延びするギリギリまで待つ奏法は上手い歌手がおなじみの持ち歌をわざとゆるゆるに崩して歌ってもやっぱり上手いねと感心される云わば俺節に近い。勝新ショーケンの唱法にも通じる俺節が山口富士夫のギター奏法にもあったとしたら。もしそうだとしたらやはり本作の観客たちも無理に大人ぶるのも程々にした方がよいのではと思う。少なくとも私は今頃あぶなかったなとほっとしている。

著者もナンシー関も時期を同じくして

1月24日、中島梓 著『夢見る頃を過ぎても』(ちくま文庫)を読む。本書は評論家、中島梓が94年から95年まで『海燕』誌上に発表した文芸時評を収録したもの。序文に―その昔十年前に日本読書新聞というところで「同人雑誌評」を一年間やり―と記されているのを読んで中島梓もそんな左翼系メディア出身なのかと気づく。かつて『写真時代』誌の赤瀬川源平渡辺和博の連載対談で「学生運動もおたくでしょ」「まぁおたくだね」などと語られていたことを思い出す。『ガリバーばななを読む』の章では金井美恵子の「吉本ばななにせよ山田詠美にせよちゃんとした評論が出てこない」という発言に著者は共感する。私は以前デーモン小暮が日本のロック史に聖飢魔Ⅱ横浜銀蝿の立ち位置がないのはおかしいと発言していたことを思い出す。充分売れているし露出しているのに評論家筋には丸無視される作家というのはいるが。それが批評に値しないということを批評してみろという主張は半分アニメキャラ然としたアーティストと向き合えない音楽誌にも今なお響くだろうか。『欲望という名のファンタジー』の章で「フライデーとスポーツ新聞しか読まない男が全部の文芸雑誌を読む男より男らしいといっているのではないが」と嘆く著者に賛同した読者は今も同じ気持ちだろうか。正月のNHK時代劇『いちげき』の勝海舟のキャラクター立てにフライデーとスポーツ新聞しか読まない男はおおいに賛同しただろうか。権力者なんて結果が見えたレースにのみ賭けるお調子者という社会認識に賛同できれば楽しめる居場所とは文学を必要としない男たちだけのものか。只のお調子者が権力者になれるなら誰でもなれるのではないか。当然自分にもなれるのではないかという思い込みが日々の燃料になる男が更に増え続けなければフライデーとスポーツ新聞も危機なのでは。『ベストセラーの構造‘94』の章では著者には全く興味のないベストセラー本をあえて全冊読んでみる試みが敢行される。同時期にナンシー関が自分には全く観る気もしないライブに集まる観客をレポートする連載があったが。著者もナンシー関も時期を同じくして何かと決別していたよう。本書のあとがきに記された日付は95年4月だが前の月の地下鉄サリン事件については触れていない。劇作家の岩松了はなんであんな事件がものを書きにくい世の中の始まりなんだと反発したが。私にはおたくの母であり戦士のようなイメージの評論家、中島梓というより作家、栗本薫もそう考えていたのかどうか。

下手なエコノミストより格段に速く

1月22日、東洋片岡 著『ワシらにも愛をくだせぇ~!!』(青林工藝舎)を読む。本作は漫画家、東洋片岡が『アックス』誌を中心に08年から18年までに発表した作品を収録したもの。東洋片岡の名前はなんと『漫画家、アニメ作家人名事典』に載っていた。「東京都板橋区出身」、「多摩美大学デザイン科卒」、「山下淳一、山下あひる、ジャック天野などの名前でイラスト漫画をマイナー誌に発表した後に『ガロ』やスポーツ紙で活躍」とある。サブカル界とアダルト界の狭間が出自の著者にはAV男優の経験もあるという。本作の『東洋片岡のおスナック・マスター生活』ではいきつけのスナックで雇われマスターを勤めた際の苦労話が語られる。文筆業の切通理作は最近地元阿佐ヶ谷の子供の頃からのいきつけの古本店を引き継いでしまったとか。昭和遺産的な商店を文化系のスノッブが文化的関心から引き受けるも客商売の現実に直面してあっさり手離す光景は尚更悲しいが東洋片岡や切通理作の店には一度訪れてみたい。「サザンといえば森雄二とサザンクロス」というギャグはタブレット純も得意にしている。スナック通ならではの笑いか。「朝までやってて千円ポッキリだからホテル代りにも」とは天国だと田舎暮らしの今は思うが。西巣鴨界隈のそんな店に囲われていた頃は自分と同世代のスナック民を軽視していた。『寝床のブルース』には安アパートに寝放しで33年たった中年姉妹が登場する。「年中悪い事してるからたまには良い事したい人達」のために看病プレイなる新風俗を発案しひと稼ぎする姉は52才。南野陽子が昨今55才で所属事務所を「契約期間満了」となり独立したとか。ナンノはまだまだ若々しいが。おばさんになったアイドルに俄然欲情する昭和40年代男の姿は実に陰惨なもの。今なら射程距離でしっぽりいけるとでも思っているのだろうか。『ゴキスナラーメンガムテープ』ではゴキブリをつぶしたガムテープを秘伝の出し汁に利用していたラーメン屋が美味と評判になる。70年代終わりにバラバラ殺人犯のラーメン店主が死体を出し汁に利用するも逮捕直前まで美味と評判だった怪事件が素材だとしたら著者は令和の乱歩だと感心。

酒も煙草も知らない育ち盛りの味覚と

11月2日、西村賢太 著『瓦礫の死角』(講談社文庫)を読む。今年2月に急死した著者の追悼企画のひとつ。表題作の『瓦礫の死角』では中卒の身で一人暮らしを始めるもすぐに職も家も失い母親のアパートに転がり込む主人公、北町貫太のひきこもりの暴君振りが酷い。が、服役中の父親の出所が近いと知るや「自分が逃げるだけで精一杯である」貫太は面倒を避けて再び自活の道を選ぶ。続く『病院裏に埋める』はその後日談。飯田橋駅近くの一万五千円のアパートに紙袋二つの全財産を下げて入居した貫太はまず好物の三ツ矢サイダーを五口で飲み干す。近年復刻ブレンドが限定生産された三ツ矢サイダーを私も飲んでみたが正しくこの味という感動はなかった。酒も煙草も知らない育ち盛りの味覚と今ではブレて当たり前ではあるが。私が貫太ものに登場する80年代の原風景に惹かれるのはその育ち盛りの味覚のままのナマな描写ゆえか。四畳半トイレガス共用の貫太の新居と似た条件のアパートに私が結局25年以上も住んで東京を離れる際に公共料金の精算(ができないという相談)に役所を訪ね室料は現在二万と申告しても信用されなかった。最近地元に増え始めた物置小屋の様なミニホテルは親との同居に嫌気がさした私と同世代の中高年のプチ家出の需要に応えて好評らしい。こちらはなかなかオシャレに見える。十代半ばにして古書マニアの貫太が付近の古本屋で昭和二十年代の『探偵実話』なる小説雑誌を手に取るくだりから始まる潮寒二、森下雨村甲賀三郎大下宇陀児といった今では誰も知らない大正期の作家の講釈。西村文学には重要な登録商標トリビアルな古書知識である。が、90年代の音楽誌に紹介されていた都内でも入手困難な輸入盤やインディーズの解説文とこうした古書マニアのあてどもない講釈はどことなく似ている。これは知らねえだろ、ていうか買えねえだろという優越感をガソリンに若者文化の先端を疾走していたはずのあの時代の音楽ライターとこの時代の北町貫太はいい勝負である。何にのめり込もうとその者の勝手だが後にプレミアムが付くか付かないかによって浮浪児かカリスマ書評家かの落差も生じるコレクターの世界。私はこれから大正期の私小説を読んでみようと思う。が、読めば読む程に西村文学のしたたかな編集感覚に呆れ返ることも予想される。90年代、渋谷系のフィールドに棲息していれば筒美京平を神格化しない訳にもいかなかったのだが。私世代ならばその筒美京平の80年代の世間的な評価も忘れたふりはできない訳で。