世が世なら串田アキラみたいになって

1月25日、山口富士夫の『Tumbling Down』(17年 Good Lovin)を聴く。本作は84年、渋谷屋根裏での山口富士夫率いるタンブリングダウンの演奏を恐らく家庭用ラジカセで録音したもの。音質は劣悪である。山口富士夫の楽曲はガレージパンクやノイズアバンギャルドとは異なって劣悪な録音状態もまた味わい深いというものでもない。もっといい音で聴きたいし何より詞が聴きたい。が、『ウルトラセブン』に登場する無名GSのように退廃した若者の象徴としての国産ロックがまだ原形をとどめている貴重な音源ではある。66年生まれの私にとってロック野郎のイメージとはエスニックな服を着てアフロヘアを振り回しながらギターを弾く痩身の男といったものだが同世代の坂本慎太郎の写真を初めて見たとき「これは!」と思った。正しくロック野郎だったそのテキストは若き山口富士夫かもしれない。80年代後半にソロで復活した山口富士夫のライブを私が渋谷クロコダイルで観た際も富士夫伝説に吸い寄せられた学習済みの「不良」が集結していた。本作でも「おたまじゃくしはかえるのこ!」などと茶目っ気も見せるフジオはにわかに急増中の若いファン層が欲しいのか欲しくないのか微妙な感。GS時代にもカバーしていた『My Girl』にはさほど加工されていなくとも濃厚な手作りのサイケな音像が。60年代にこんな音を出しても皆キョトンとするばかりだったろう演奏を80年代の若いファンはどう受け止めたのか。私が山口富士夫のボーカルを初めて聴いたときは男臭いアニソン歌手のようにも感じた。世が世なら串田アキラみたいになっていたかもしれないフジオのボーカルは大人っぽい。「ロックミーオールナイローン」とフジオに呼びかけられて「サイコー」とはしゃぐ観客は無我夢中で大人ぶっているのだ。裕也さんの「シェゲナベイベエ」同様に時代背景なんて関係ないローティーンにまで真似されてこそ本物なのか。巷でいわれる山口富士夫ならではのタメの効いたギターとはなんぞや。タメとは溜めであり一拍たくわえることでは。前の音と次の音の間を間延びするギリギリまで待つ奏法は上手い歌手がおなじみの持ち歌をわざとゆるゆるに崩して歌ってもやっぱり上手いねと感心される云わば俺節に近い。勝新ショーケンの唱法にも通じる俺節が山口富士夫のギター奏法にもあったとしたら。もしそうだとしたらやはり本作の観客たちも無理に大人ぶるのも程々にした方がよいのではと思う。少なくとも私は今頃あぶなかったなとほっとしている。