渡世の義理と経営者の孤独は同意語か

11月19日、はしだのりひことシューベルツの『未完成』(東芝音楽工業)を聴く。本作がレコーディングされたのは68年11月から69年4月の間。私はシューベルツは70年代初めに活躍したバンドだと思っていたが68年のフォークルの解散時には既に準備していたそう。関西フォークにはAFLという寄り合いのような団体がありその中でメンバー交換を繰り返していたという。が、シューベルツ結成時にはもうジローズやザ・バニティーに所属していた杉田二郎越智友嗣井上博の三人は切り離されたメンバーにどう対処したのか。その辺りは「日常茶飯事のことであったから不思議なことではなかった」と解説文にはある。またそうしたエピソードも「京都フォーク界におけるはしだの実力が容易に想像できる証左である」とも。私は東京進出時のシャ乱Qがテレビ局に挨拶回りする姿を見たことがある。その際メンバーの一人が松葉杖をついてギブスを引き摺っていた様子におどろいた。シャ乱Qも同級生バンドではないからいつシャッフルされるかもわからない不安の中でのデビューだったのか。69年に『風』でデビューしたシューベルツはヒットにめぐまれた。印象的なトランペットのイントロを聴くと今でも涙が出る人物には二通りあるように思える。ここから出発した者とここで降りることになった者と。本作には北山修も全面的に参加しておりそれが余計にうらみっこなしの「渡世の義理」の様なものを感じさせる。はしだのりひこは案外親分肌なんだと思いつつ内ジャケの写真を見ると当時のはしだのりひこはまるでデイヴ平尾並の親分顔だった。北山修は先だって出演したラジオでフォークルには杉田二郎を迎える予定を加藤和彦の案ではしだに決めたのは彼のプロデュース能力と語っていたが。素人集団があの手この手で応戦していたのはマスコミであり当時のマスコミの反語といえばアングラである。ジャックスもフォークルもGSとは呼べないのは微力ながらもマスコミに抗う姿勢があったからでは。師匠も兄弟子もいなくとも自分たちだけでやるという気勢が逆にマスコミに愛されることもある。渡世の義理と経営者の孤独は同意語かも知れず。本作には特典として『何もいわずに』のシングル・ヴァージョンが追加されている。アルバムのラストを飾る同曲から一変して下世話なムード歌謡調に寝返ったアレンジに。編集者の言いたいことは私にもわかる。わかるがそんなシューベルツに石を投げた当時の若者を小学生の私が信用できたか。聴けば聴くほど悩ましいデビュー作。