要は踊らされるなよということだが

11月17日、森達也 著『たったひとつの「真実」なんてない』(ちくまプリマ―新書)を読む。本書は映画監督、作家で大学教授でもある著者が2014年に書き下ろしたコラム集。著者がこれまで発表したコラムはいずれも一貫して「情報は公正でもないし中立でもない」と主張している。要は踊らされるなよということだが。躍らせる側にもまず踊らないだろうと思っている人物もいるはず。ローリング・ストーンズの初来日公演はテレビ中継されたがその際、VIP席で大暴れする男闘呼組の映像をはさんだ側の狙いは視聴者に正確に届いただろうか。だから男闘呼組はまぶしいと思う層とだから男闘呼組は目も当てられないと思う層の割合はいかがなものだったか。局アナなのにコンビニの広告に出ていいの?と思うとほぼ同時にそう引っかけるのが狙いかとも私は気付く。が、何やらいやらしいことをするからそのコンビニはもう利用しないかといえばそんなことはない。まだ広告してるのかとつい足を運んでしまう。その場合には局アナを起用する側の狙いは命中しているのだ。著者は「全滅」は「玉砕」、「敗走」は「転進」など戦時下の日本の新聞の言葉の言い換えを問題視する。そしてそれらは現在も続いているとも。私は背番号がマイナンバーになっても国民の警戒心は変わらないと思う。が、マイナンバーを発案した人物には最大級の表現で抵抗したい。どうでもいい件をちょっといじっただけで莫大な企画料を手にする人物は一般企業にも多数いるとは知りつつも。これまでも度々著者が扱ってきたやらせとは何かについて本書ではイギリスのオーディション番組を例に探求する。いかにも場違いな田舎のおばさんが世界的な歌姫に変身する瞬間には先に実力を知っていた演出側の狙いがあったとか。例えば遅かれ早かれ亡くなるだろう著名人を追うレポート同様に必ずブレイクする芸能人をマークするのはやらせとは呼べないのではと私は思う。「すべての情報は真実ではなく解釈」と言いきる著者とかつては「世界を演出したい」と語った大島渚との距離は近いような遠いような。著者の最新作『福田村事件』は同じ時代の主義者や被差別者を描いた瀬々敬久監督の『菊とギロチン』よりも引き込まれたし東出昌大も好演していた。田中麗奈の大正モガ振りも胸のすく配役だったしキャスト全員が林間学校のように発奮していたよう。映画監督、森達也のメガホンはそんなに悪いことはしていないのに気付けば日陰に追いやられた俳優を今後も蘇生させそう。