二十年目のビバテレビである

 目の前で藤原新也が食後の一服をくゆらせている。とあるファミリーレストランの一角、時刻は夜の七時半か。藤原新也が立ち去った後に私はテーブルの上の吸いがらを確かめる。キャスターの7ミリグラムを愛飲しているらしい。注文伝票と風邪薬の空き袋などを記念にパクリつつ、私は藤原新也が駅ビルのエスカレーターをゆっくり降りて行くまでを見送った。
 私のパパラッチ行為に気付くものは店の周囲にいなかった。仮に私が藤原新也の去ったテーブルに歩み寄り、吸いがらやゴミをそそくさと取り上げてポケットにしまい込んでいる様を目の前で見た人物がいたとしよう。それでもその人物は私のことを少しも怪しいとは思わないだろう。私はその時まったく偶然にもそのファミリーレストランの制服を身に付けていたのである。従業員の一人だったのである。まったく偶然にも。
 そしてその日以来、私もキャスターの7ミリグラムを愛飲することにしたのだが。パパラッチ行為の天罰なのかふいの貧乏にまたも襲われ、給料日前の今はわかばを吸っている。何となく町役場の職員になったような気分か。金が無いという理由以外でわかばを吸っている人間は今どのくらい日本国内に存在するのだろうか。例えばとある地方、例えば能登半島では三人に一人はわかばを吸っているとかそんな背景があるような。もしくはとある宗教法人ではわかば以外吸ってはいけない戒律があるとか。そういうのすごくありそうだ。
 私が今になってあれはきっとそういうことだろうと思うのは、ひと頃の視聴者参加の公開バラエティ番組の応援団のことである。クイズでも素人ものまねでも良いのだが、その参加者のために三十名程の地元の友人知人達がすずなりになってエキサイティングな応援を送るあの様子のことである。集結力の強さといい一人ひとりのテンションの高さといい、今思えば絵になり過ぎている。あの類の番組はすべて家族向けバラエティの形を借りた宗教番組だったのではないか。もしそうだったとして、そんなこと今頃ひざを叩いている私の方が間抜けもいい所だとして。
 今現在はどうなのだろう。バラエティの形を借りた宗教番組は廃止されたのか。んな訳ないと思う。むしろ完全に朱に交わりつつあるのではないか。交わり過ぎてもう見分けがつかないのではないか。お笑い芸人の定番ギャグは実は御題目の一種と思っていいのではないか。大きな声ではきはきと日々のあいさつをくらいのことしか電波上はプロパガンダできないのが現状ではある。あるがあいさつの意味が違うのではないか。北京五輪までに亡命したい私。