愛し過ぎてこんな感じである

『愛しのハーフ・ムーン』を観てから何やら80年代後半の若者文化、それもかなりダメな層の若者文化に魅了されてしまった。最近ではどんな弱小アーティストでも一応は大手レコード会社からデビューしていればパソコンで当時の音源や映像が引き出せるというが。チェッカーズの亜流バンドはあの頃何組かデビューしては消えていったが。もしかしたらCCBの亜流バンドというのも話題にはならなかったがあったのかもしれない。
河出文庫の『豪快さんだ!完全版』(泉昌之 著)などもついつい入手してしまった。が、なぜかあの頃ほど楽しめなかった。ではなぜ当時は豪快さん的世界観が面白かったのか。定食屋で一人前の男らしく丼めしを食う方法、初めてのデートで彼女にたのもしい男と思わせる技術などを面白おかしく展開させる本作を読んでいた当時の私はまだ二十歳前の学生ではなかったか。ラーメン屋に1人でフラリと入ってタバコを一服しつつスポーツ新聞をめくるなどは結構な冒険でもあったのだ。そうした大人への第一歩をふんだんなギャグを混ぜて面白おかしくナビゲートしてくれる泉昌之はあの頃の私の心の兄貴だったのか。
心の兄貴ならもう少しマシな人材があったのではないかとも思うが。他に夢中で追いかけていた書き手といえばカーツ佐藤でありうのせけんいちであり記憶をたぐればたぐるほどダメだ。中学時代に松山千春武田鉄矢の人生コラムに本気で心酔していた同級生たちにあきれていた反動だろうか。等身大のヒーローに憧れていたのかとも。等身大ならいいってもんじゃないだろうと今になって思う。松山千春の説教に中学時代からしびれきっていて今も『月刊松山』が人生の指南書などといった四十男たちはそれはそれで幸せじゃないかと。当たり前だけどそっちの方が全然いいよ。
そして今の私は『豪快さんだ!』の世界にも再び入り込めないしポコチンロックで踊り狂う若さも残っていない。そんなことはカーツ佐藤の『文章読本』を買っていた時にもうわかりきっていたんじゃないのか。わかっていたといえばわかっていたような気もするしその逆だった気も。じゃあその逆にそうしたダメ兄貴層から突出してメジャーになった田口トモロヲ香山リカにもう余り関心がないのは。やはり『豪快さんだ!』に狂喜していたあの頃が人生の花ということで。ドライ系の風俗女のコに今そこで買ったペットボトルなどプレゼントして平然としている中年親父に私もなろうかと。この漫画面白いよと『豪快さんだ!』を平成っ娘に差し出してオロC臭いゲップなぞ。