何だか蛭子さんに似てるなと思ったが

2月18日、横尾忠則 著『温泉主義』(新潮社)を読む。本書は画家、横尾忠則が05年11月より07年12月まで雑誌に連載していた紀行文を一冊にまとめたもの。そもそもが温泉嫌いだった著者が仕事がらみで銭湯協会にかかわった際に「銭湯の次は温泉に行って、それを絵にしませんか」と知人の編集者に持ちかけられたのがことの発端。「銭湯の延長に温泉浴というのは理にかなっている」と直観した著者は依頼を引き受ける。芸術家がこんなふうに日常のささいな気づき、閃きを大切にするのはもっともだが横尾忠則のそれは受動型のよう。「誰かに決めてもらって、それに従う方が妙なエゴが出ないで楽である」からだそう。何だか蛭子さんに似てるなと思ったがこれは順番が逆。蛭子さんが横尾忠則の影響下にあるのだ。全部で24件にもわたって紹介される名湯のなかで私が惹かれたのは愛媛県道後温泉。著者は少年期に一度この地を訪れた記憶に導かれて道後温泉本館の前に立つ。確かにここに間違いないと思う。思うがどうもスケールが違う。「ぼくの記憶の十分の一もない」道後温泉本館にとまどう著者は「もしかしたらこの本館は四次元を取り込んでいるのかもしれない」と疑う。芸術家以外の者がこれに近い感覚を持つのはプロレスラーやAV女優を生で見たときの違和感か。案外小さいとかでかすぎるという違和感には自分の理想とそう簡単にシンクロさせたくないという心像の微調整のような働きもあると思う。何か違うのは著者にとって実はさほど重要ではなくその違和感をきっかけに何処かへたどり着きたいと願っているのだ。魂の旅である。本書は古希を迎えた著者の魂の旅の記録でありながら結婚50年目の横尾夫妻のいわゆるフルムーンの記録でもある。これまであまり表に出なかった横尾夫人の写真もたくさん登場する。横尾夫人といえば過去に横尾忠則が記したエッセイのなかでは肉感的で女度胸のアクティブな人のイメージがある。が、本書に登場する横尾夫人は見た目はなるほど肉感的でも異常なびびりだと判明する。「フィジカル、メタフィジカル両方の恐怖を一気にかかえた」夫人は動物系、乗り物系の恐怖の次に今まで感じなかった心霊系の恐怖も覚えだす。結婚50年目にしてようやく夫の異常な霊感が移るいう混じり気のない夫人の肝っ玉こそが横尾忠則の芸道を照らし導いてきたのではあるまいか。恋人同士は顔つきが似てくるというが結婚50年目の横尾夫妻もまさしく瓜二つ。並んで記念写真におさまる佇まいが堂に入っていて当たり前かもしれないが実に絵姿がよい。