ともすれば充分戦後派なんである

 最近やたらと多い戦後歌謡史的文脈に乗ったリメイクJ−POPに物申す。まず楽曲的につまらない。古き良き素材を現代風にアレンジしたつもりがオリジナルより鮮度の低い出来に終わっているケースがほとんどである。中村登の映画「続・愛染かつら」であまりにも有名な駅のホームでの別れのシーンを現代的に国内便の空港に置き換える試みがなされたが当時の反応はどうだったのか。今では明確に失敗である。空港を飛び立つその飛行機がプロペラ機だからである。見てるだけでヒヤヒヤしてしまうガタピシに昔の人は金持ち気分で乗っていた不思議を思ってしまいストーリーは忘れてしまうんである。昨今増えつづけるリメイクJ−POPのほとんどがあのプロペラ機と同様に思えてならない。そして作り手にもオリジナルを食ってやるなどという戦意は初めから無さそうである。ひょっとしたらオリジナル側からの要請で水で薄めたリメイクを作らされているのではないのか。作らせるほうの意としては最近仕事してないけど昔はそりゃ大忙しでヒットだってこの通りといったところを若い世代に見せ付けたいのではないか。要するにキャバクラでモテたいのではないか。そう考えれば心憎い独自の解釈による新アレンジなど現われないのも当然である。オリジナルがキャバクラでしぼんでいなけりゃならないからである。

 キャバクラにおける出来レースが有線越しに実況生中継される不思議の国である。総理大臣も料亭で決めるなら歌謡大賞もキャバクラで決めようということか。それは構わないが、料亭もキャバクラも新世紀をしぶとく生き抜くのに対して総理大臣や歌謡大賞はどうだろう。「続・愛染かつら」のプロペラ機になりかけてはいないだろうか。かくのごとく語るこの私もそろそろ時代遅れのガタピシに近づいている。つまり老成している。戦後が生きているのだ恐らく私の世代にはまだギリギリ、と自覚する場面が増えた。

 幼稚園の年少組はうめ組である。うめ組の他にさくら組やもも組もあった。別にナショナリスト系の幼稚園ではなくてだ。お弁当の時間には皆で円座して両手を合わせお父さんお母さんおいしいお弁当をいつもありがとうございますと声に出して唱えた。お父さんお母さんの次にお米を作る農家の人々にも感謝しています的な事もくだけた表現ではあったが唱えた。別にナショナリスト系の幼稚園ではなかったし、他所の幼稚園もそんなものだったと思う。汲み取り式便所もバキュームカーも生活の一コマであった。終戦直後の話ではなく防空壕に子供や飼い犬が落ちるトラブルはあった。ゴムひもや革ベルトを押し売りに売る見るからに素性の怪しい男は実際見たし車を運転する時はあのババア当たり屋だから要人しなと噂される老女が近所にいた。昭和40年代はまだまだ戦後だったのではないかと私は思う。「スター誕生」などという番組を日曜の昼には家族中で見つつこのコはモノになるとかならぬとか真剣に批評を交し合ってもいたし。それはお前の家が並以下の家だからと言われるのは心外で並は充分キープしていたと思う。父親は県議会に出馬し落選した。その時応援演説を依頼しようかと周囲の大人達が名を連ねた芸能人の名前は伏せるがギャラは50万であった。今でも活躍中の大物タレントもいれば、もう消えたタレントもいた。が、はっきりしていることは昭和40年代の人気タレントはそのように地方選挙の際には見ず知らずの候補の隣にひょっこり現われ応援演説という名の営業行為と引きかえに50万円もの大金を拾い歩いていたのだということである。そうした営業行為は現在ではどんな具合にリメイクされているのだろう。その辺のドロドロな背景がこれからは徐々に明るみに出てしまいそうな予感が私にはするんである。何やら北の国から