最終学歴神田アカデミーである

 三百人劇場小林政広監督「歩く、人」を観た。舞台は北海道増毛町、緒方拳演じる造り酒屋の老主人は二年前に女房と死別している。今は次男に酒蔵を引き継ぎ自分はもっぱら散歩の日々。長男は十二年前に家を出てフラフラしているが、本人は音楽で生活したいと父とは対立したまま。が、そんな身の上ながら同棲中だった恋人に子供ができてしまう。経済的にもドンづまりの為に実家に夫婦で転がり込もうかと考え始めている。このダメ兄貴を香川照之が地道な弟を林泰文が演じている。ダメ兄貴と野良犬のようにくっついた同棲相手を大塚寧々が演じている。

 本作は昨年カンヌ国際映画祭で満場の観客から大きな支持を受けたとチラシには書かれている。私は昨年カンヌにて本作を観ていないっちゅうかカンヌを訪れてもいないので反響の程は知らない。が本作にはカンヌよりも三百人劇場よりもオフィス街の窪地のピンク映画館が似合うと感じた。ハードなカラミは無いものの作品全体に流れるへなちょこで半ばヤケクソなブルース感はピンクそのものである。それも今現在のピンク四天王も遠くになりけりの今の今のピンク。それが「歩く、人」なのである。四天王といえば瀬々敬久がトヨエツ酒宴で撮った犬に生まれ変わった男のメロドラマはヒットしたのだろうか。ピンクの世界で一代築いた監督にはマネーメイキングな大物俳優を使って良いから一発食ってみろ、ハイがんばります的なシステムが邦画会にはあるのだろうか。あるとして過去にそうした大一番を見事勝ち取ったピンクの監督は存在するのだろうか。カンヌで絶賛という事実が勝ち星と呼ばずして何と呼ぶと言われれば何も返す言葉はないが。

 本作が他の邦画とまるでジャンルの違ういかがわしさを放っているのはまず画面のチープな触感か。森林動物の生態や有田焼のできるまでを撮った記録映画を観ているようなあのチープさである。そして音楽。一昔前の芝居してるAVに流れる安物シンセがモギュモギュいってるだけのあの効果音楽が多用されている。私は本作の予告編、広報などからはそうしたピンク映画臭は感じ取れなかった。パッケージは文芸作品であったと思う。で、中味は今のピンク。今のピンクを緒方拳主演で撮ったことが本作の所謂タマなのか。私は以前に当コラムで変質者も酔客もいない小屋でピンクを観られたらよいが、そんな小屋はすぐ消えてしまうだろうと書いた。多分その願望が半分叶ったと思って喜ぶべきなのだろう。が、いざそうなると水清ければ何とやらを感ず。ピンク映画臭ムンムンのカメラの前に立つ緒方拳はスターには見えない。何となく緒方拳になれなかった大部屋出身の老優が監督の指示通り笠智衆の物マネをやらされている風である。他の俳優も同様でまるで輝きがない。輝きがないツヤ消しクロな画面は勿論狙いであろう。「東京人」の廃アパートメント特集のように今では値段の付けられない極貧な湿気は時代が冷え込むほど買いだしピンクの世界にはそれがまた息づいているから。小林監督の手にかかればどんなキラ星も一瞬にしてビー玉化されてしまうよう。緒方拳の後妻になりそこねた鮭の養殖場の職員はピンクではもうベテラン女優の葉月螢である。が、葉月螢がMEGUMIでもやはり何ちゅことない山出しの芋姉ェにしか描かないし、描けない性分の作家だと思う。実際大塚寧々はこれまでのどんな役より等身大で貧乏臭かった。で、この貧乏臭さがカンヌで大受けということならばそれはアメコミに登場するメガネ猿のような日本人。チョンマゲに高下駄で登校する小学生達の紹介された欧米の教科書の中の日本人と同じ扱いの枠内で大受けしているだけじゃないのだろうか。1時間43分の国産国辱コントということであれば茶化している対象は一体どちら様なのか。中学校の休憩時間に不良に囲まれてチンコ出している頭のゆるい子が可哀相で間に入った学級委員の女の子がお前が代わりになれと言われてパンツ下ろしたところを担任に踏み込まれお前ら全員ちょっと来いかなんか言われてカンヌまで行った映画。

 がんばれ田尻裕司。