少なくともこんな事してられんのである

 現在三十代半ばである私が二十代半ばの頃の話。月島にあった広告統計会社のオフィス内で私はアルバイトをしていたんである。仕事の内容は都内、及びローカル都市のCMがクライアントの買った時刻にちゃんと放映されているかをビデオで確認するだけの作業。ほぼ一日中ビデオモニターの早送り画面を孤独な老人のごとく見やり日が暮れるだけの日々。それで当時は結構な賃金をもらって帰りは連日銀座で映画を観ていた。今は印度カリーの店になっている有楽町マリオンの手前のサンドイッチの見せ(じゃなかったかもしれないが三宅裕司似の中年男が切り盛りするまあパン屋だパン屋)にて軽食を買い求めて映画館にしけ込む時間が至福の時ではあった。

 で、そのアルバイトで地方局のバラエティーなんぞもビデオで観れたおかげで随分得もした。地方の番組で人気もピークに達したタレントが東京進出を図る過程のドギマギ振りとか。それに再放送。関東ローカルに生まれ育った私もテレビ埼玉によって痛感させられたものだが地方局の再放送は何というか怖いものなしである。キャロル出演の「夜明けの刑事」なんか昼の日中にオンエアーしていたがあれをエアチェックしてこっそり商売していた人間もいたのではないか。日清ビッグ焼きそばに並ぶレアな永ちゃんの若き日。私ももう一度観てみたい。

 が、その当時のアルバイトの最中に一人の婦女子がこう言った。「それにしてもこんな事してていいんですかねえ私達って」と。当時は湾岸戦争の始まった頃だったのである。職務のお目付け役でありイッセー尾形似の何ちゅかその世代の方がすぐに彼女を説き伏せた。約五分程の演説でわかりました何だかすみませんでした。と。おそらく当時の街の声としてニュース番組が拾っていた新橋付近の何ちゅかダメサラの主な声と同じ内容だったと記憶する。とことんやったらいいじゃないですかと。何故ならばと続く部分にはそれなりの見識の深さを感じさせるものがあったかもしれない。私はその肝心な部分を忘却してしまった。あまり真面目に聞いてちゃ斉藤博みたいなリベラルな脚本家になれないからと思っていたから。で、いまそう成れたかって言うと全然成れていない。「恋しのハーフムーン」に半歩も近づけていないこの現状。「軽井沢シンドローム」は堀江しのぶの「スマイル」か。実現してたら邦画界がひっくり返ってたような怪作を妄想しながらそぞろ歩き。世界の終りをスナックランドの片隅で有り有りうどん鼻から爆裂しつつ思い知らされもう一軒行ことつばめ本店でハンバーグお持ち帰りに湯と。