半分の半分にもう一声である

 PARCO劇場の「寺山修司・映像詩展」に出かけた。「初恋・地獄編」をスクリーンでちゃんと見ておきたかったからである。トークイベント付きでその晩のゲストでメイン司会者は九條今日子さん。ラッキーであった。最近では「私は寺山さんの生原稿を持っている(つもりな)のですが。一度ご覧になっていただけないでしょうか。」との依頼が九條さんのもとに何件か寄せられるという。つまりその生原稿が本物かどうか元夫人に鑑定してもらおうというのである。その中には本物もニセ物もあるとか。半分本物で後はニセ物というのもあったが「幾らで手に入れられたかはお聞きせずに」本当のことを言って帰ってもらうことに九條さんはしているとか。ニセ物に大金をつぎ込んだのは持ち主自身なのだからそれで当然であろう。私はその半分本物の生原稿というものが気になった。半分本物の生原稿は始めから半分だけ入手できた物に残り半分をネツ造して一組の生原稿にしたものなのか。半分ずつ買い取ってネツ造し販売した人物が二人存在するのか。始めは一組だった生原稿を半分本物のまま二人に売りつけた人物が一人存在するのだろうか。その人物らと九條さんは勿論無関係だと思う。無関係に決まってるだろ失敬なと言いたい。私にも半分の半分くらいナニをナニしてくれたのなら。

 没後20年の寺山修司のイベント会場は若い女性客で一杯で「あの人こんなにモテたっけ?」と宇野亜喜良はキョトンと客席を見回していた。女性客なのだから寺山修司をセクシーだと感じそのフェロモンに集まってきたのだなと思うのは早合点かも知れない。が、少なくともどんな男で何を考えていたのか興味はつきぬと感じている若い女性ファンはPARCO劇場八分目くらいは軽く集まってしまうのだ。半分の半分に高級マンション程の値が付いても将来的には不思議ではない。となれば生原稿まではいかなくても「これは生前の寺山さんが○○した品物」であればすべてそれなりの値が付いてしまうかも知れない。それこそアパートの契約書から警察の取調べ書から何でも。まだある種のインサイダーではなくともそれらは誰にでも手を伸ばせば届く場所にスッ転がっていると思われる。探さねば。寺山修司のお宝はまだ国内外のいたるところに放置されている。寺山修司本体が放置されていることもあるぞと、死にかけながらほのめかしていた人物である。私はグッズ売り場の売り子すらも香典泥棒を見る目で見ていたが、香典泥棒は勿論あの人であって欲しいと願った。