あきらめるのはあきらめたんである

 夏をあきらめてどうする。去年の夏の始めにこの場にどんなことを書いていたっけかと思い起こしてウヘェとひるんだところ。どうせ金もヒマも無いし、気分直しにわざわざ電車を乗り継ぎ出かけた商店街の銭湯にドボンと。で、帰りには名画座で70年代のロマンポルノとごひいきのサッポロラーメンの塩。それが去年の夏の唯一のレジャーときた。心の贅沢ってやつですかねえなどと結構いい気になってこの散歩コースを紹介していた去年の自分に今腹が立つ。ヒッピーかよと。しかしあの文章はエイチをすこぶる喜ばせた。あの調子で貧乏自慢ガンガン書いてよ、面白えやマジでと。気がつけばエイチに与えられたこの箱庭の陽気な住人代表として私は明るい貧乏暮らしをショーアップし過ぎてきた。それはもうやめにしようと思う。明るい貧乏なんて無い。お金が今は無くとも成長期に本物の贅沢を知ってる人はセンスと創意工夫でそれなりにしのいでいける。ファーストクラスとエコノミークラスのまるで違うようで実は大差無い部分に眼が効けばちょっとのズルで贅沢貧乏は可能。要は愛情と手間ひまなのととか何とか言うじゃんそっち側の連中。でもそうした有難いご忠告に俺等プアが愛情と手間ひま音頭を踊り狂い出したらまたそれで連中の飯の種が一つ増えるだけではないのか。心の贅沢ブーム大迷惑。一生遊んで暮らしたくない。100円ショップもつもり貯金もさようなら。読み終わった本は窓から放り捨てようかと思う。香港の下町みたいでカッコイイじゃん。ガオ――か何か。一通り当り散らして幸いケガ人も出なかったようなので貧乏コラムを続けます。訪問者の皆様すみませんでした。店長すみませんでした。ボビー、悪かった。

 三日前の昼のこと。いつものように宿酔い頭でフラフラと大塚近辺を私は浮遊していた。その時向うから駆け寄った中年黒人男性に私はむんずと腕を引っ張られたのだ。「後アブナイ、車!」などとそんなに下手でも流暢でもない日本語で私をしかりつけた黒人男性の顔が次第に悲し気にうつむき始めた。車が私の背後をヒュンとすり抜けると彼も「本当にアブナイヨ」と言い残し去った。命を助けられときながら腕が痛えだろクロか何か口には出さなかったが顔には出ていたのだろう。今思えばひどい事を。けれどあの場で彼を呼び止めて謝罪するのもどうかと。車にはねられそうなところを助けてもらって礼も言わずごめんなさいということじゃないだろう。でも謝れば良かったのか。そこからはじまるんですよ何か、何が。何がはじまるのよボビー。今度その話しよ。