岩清水は元々岩清水である

 1月23日、夕刻自室にてのたらくたら過ごす。夜はラピュタに「愛と誠」を観に行くつもりでいる。74年の松竹作品である本作を私は未見である。覚えているのは当時の少年マガジンの表紙を主演の西城秀樹早乙女愛が飾ったということ。小学生から見ればハマリ役に見えた秀樹の不良番長っ振りだったが。恐らく当時の世の不良どもの反感を多いに買ったと思われる。不良のアイドルを不良性感度の低い正統派アイドルが演じることに世の不良どもは黙っていられないものだ。が、秀樹のように正統派のやや不良性感度あるアイドルが配役されると火に油を注いでしまう感も。アレなら自分の方がまだまだ不良であるというもどかしさからか。
 不良性感度無い俳優、中途半端な不良に不良を演じられるのは黙っていられないと主張する世の不良どもははたして。はたして俳優、安藤昇をどう評価しているのだろうか。ま、本物と。本物出せば文句ないだろうというものでもないだろうと声をひそめて私はいいたい。が、しかし現代は本物出せば文句無い時代ではある。
 叶姉妹鈴木その子のような人物像は70年代までは劇画や小説のモデルにとどまっていたと思う。そういう世界もあるところにはあると言い伝えられる場の住人たちが表舞台に引きずり出されて芸を強要される時代なのだ。私は本物出せば文句無い時代に抵抗したいのだが。底知れぬ不況が世間の表も裏も高速度でぶっちゃけていく有り様にどう対処したものか。ヤンキー何某という肩書きが持てはやされるのも決して良い気持ちではない。が、堅気な職業が元ヤンでいてくれるとホッとするような情けない部分パーマ人口が今のこの国を支えているのが現実ということか。元ヤンではまかり通らぬ堅気中の堅気な職業にもこれから限りなく元ヤンは進出していくのだろうか。
 行政、教育、あらゆる娯楽などから元ヤン達が投げ放つネットから逃れるにはどうすれば良いのだろう。不良から見て全く利用価値の無い人間、煮ても焼いても食えない人間を目指すべきではないのか。ニートやホームレスではまだ安心できない。むしろ利用される可能性大である。マッチョな文化に翻る意味でニューハーフはどうか。やはり利用される可能性大である。どんなエサにつられるか不明であり野心はあるが暴力性は無くクールで清潔でもゲイにあらず。そんな「愛と誠」の岩清水弘のような人物像が望ましい。岩清水でいこう。岩清水に決まりました。ぶっちゃけた現代に踊る元ヤン見る元ヤンにやめないか君達と。ピシャリと。この岩清水が言ってやりますから。押入れの中から。