打算抜きなら終身刑である

 新文芸座にて「鬼才 増村保造」、「女の小箱より 夫が見た」(64年大映)を観る。田宮二郎演ずる成り上がり者の青年実業家が乗っ取り工作を仕掛ける大会社の株を守る任務を持つ川崎敬三の妻役が若尾文子。例によって目的のためには手段を選ばぬ田宮は株主リストを盗み読もうと若尾に接近する。が、川崎も実は田宮の女秘書を同時期に愛人にして情報を盗んでいた。その愛人との密会現場を田宮のタレ込みから目撃してしまう若尾。もうどうでもよくなり田宮に身をまかせてしまう。しかしそうなると自らの野望よりも若尾の魅力の方に田宮の心は傾いてしまうのだ。打算抜きの本物の恋愛がしたくなった田宮は若尾を宝石店のウィンドーの前に誘い、「あのパールなんてどうです」と問い掛ける。どうですったって素敵じゃございませんことか何か口ごもる若尾。人に贈りたいと思いましてね、よォし決めるかなどと店の中に消える田宮にそりゃどうもごちそう様などとうつむく若尾。この場合のごちそう様とはパールの大玉をごちになる、いただきますわという意味ではない。他の女だかパールを贈るおのろけ話をどうもごちそう様ですわという意味。で、その日の別れ際に田宮はそのパールの指輪を「受け取っていただけますか」と若尾に差し出す。私はこの場面で痛烈に尾骨の辺りがムズがゆくなった。
 今から20年近く前に交際相手から全く同じ手法で贈り物をされた経験があったからだ。それは田宮のようにたった今から打算抜きの本物の恋愛をはじめる誓いの贈り物ではない。その逆でございます。交際相手からその日限りで交際を終わりにさせていただきたいという申し出を私が承知した上での最後の交際の席のことである。原宿周辺の当時流行のファンシー玩具の店を人に贈りたいものがあると引きずりまわされていた20年前の私は半泣きであった。最後のデートに他の誰かへのプレゼント選びに付き合わされている自分がみじめで。お目当ての品というのが当時流行のロカビリー文化雑貨にありがちなアメ車のナンバープレートをあしらった小物入れであった。ハッキリ言って趣味じゃないその品を贈られる次の交際相手の立場になって色が形がどうのこうの一応アドバイスする私の立場はもうない。原宿のノーラー族とでももう付き合ってんだ、ミッキーみたいなのと付き合ってんだか何か半泣きから全泣き寸前。夕刻交際相手の家まで送るともう外は暗い。ま、それじゃ元気で、ま、ひとつか何か言葉につまる私。ウンそれじゃ有難うと差し出されたのが半日うだうだ探し回ったそのローラー族が喜びそうな小物入れ。で、それがきっかけで俺ローラー族になったんだけど。愛称オッケーってんだけど。とにかく映画の中の田宮とは百八十度違う恥辱だが手法は同じじゃないかと座席から転げ落ちた。この映画を観てヒントにしたのか田宮の行動も古い恋愛映画からのいただきなのか。しかし映画の中の似合いのカップルの行動やら小さなしぐさをマネる若い男女は今も昔も多い。だが案外昭和40年代生まれの私世代が一番恥も外聞もなく街頭劇繰り広げてきたような感が。喫茶店で一つのジュースグラスに二つのストロー差し込み彼氏と彼女でチューチューか何か。私はチューチューしたことは無いが同年代のチューチュー野郎は結構いると思われる。あれなど今時の若者には風俗遊びより不潔ったらしく見られそうな。でも同年代まではやってますよ。唐沢寿明とかやってますよ、ねえ。