見えない世界は二人のためである

3月14日、東劇にて木下恵介監督作品『二十四の瞳』、デジタルリマスター版を観る。デジタルリマスター版ではない『二十四の瞳』をスクリーンで観たことは過去二回か。数年前に虎の門ホールで木下恵介作品ほぼ全作を取り上げた上映会がありその時観た『二十四の瞳』のあまりに有名な汽車汽車シュッポシュッポのシーンが忘れられない。
デジタルリマスター版ではさらに時空を越えたまるでつい今しがた撮影されたかのようにシャープで鮮明な汽車汽車シュッポシュッポが観られるのかと期待したが。何となく虎の門ホールの時の方がよかったような。デジタルリマスターの科学的構造などまったく無知な私には言いづらいのだが。ビニール盤のレコードとCDの差異などと比べるのはたぶん見当違いだろう。いやそうでもないのか。ビニール盤のプシュプシュという雑音がCDではまったく聞こえないというか聞こえるわけもない仕組みになっていることくらいは私でも知っているが。
デジタルリマスター版ではない映画はまばたきをする。カメラのレンズを一個の人間と置き換えて観ていると今映画がまばたきをしたなと感じる瞬間が古い作品には必ずある。デジタルリマスター版にはそれがない。ではやはりビニール盤とCD程の違いでしかないのかとも。これからも過去の名作が続々とデジタルリマスター化されていくのはたぶん間違いないだろう。
人工的な出来たてほやほやの古典に触れる若い観客達が全体どのような反応をするのやらと思いつつ終映後ロビーに出る。すると休憩所の長椅子では何組もの母娘たちが抱き合いながらずぶずぶに感涙しているではないか。そういう私も久し振りに映画館でしゃくりあげるほど泣いてしまい自分の年齢を疑ったが。今、『二十四の瞳』を観てロビーで抱き合って泣いている母娘たちというのはどんな層の人たちなのだろう。週刊誌などでよく二十歳も過ぎた娘と休日には仲良く手をつないで銀座で買い物を楽しむようなプチブル連中と白い目を向けられる層の人たちか。
白い目を向ける側のともすれば唯一の生活情報源たるスポーツ新聞にも今回のデジタルリマスター版『二十四の瞳』の上映の紹介記事は多数あった。出演した子役たちは現在六十歳前後でありサークル活動的に今も顔を合わせているが他界してしまった面々もあるという記事も。本当の豊かさなどとは昔も今も雲をつかむような感があるが本当の貧しさ、血の出るような切羽詰まった暮らし振りは本作の中に今も生きていると感ず。その生モノ感を生のまま後世に残すという意味で今回のデジタル化には個人的に異議なしかと。