あのおじちゃん家行っちゃダメである

4月12日、ポレポレ東中野にて大津幸四郎第一回監督作品『大野一雄 ひとりごとのように』を観る。1906年生まれで今も現役の舞踏家、大野一雄のドキュメンタリーフィルムである。監督、大津幸四郎は小川プロ出身のカメラマンで劇映画の撮影監督としても知られているが本作が監督デビュー作。1934年生まれというから今年で73歳とこちらもいぶし銀というか。
百歳を超える舞踏家の稽古風景、舞台公演を70歳を超えた新人監督が撮る訳かと始め私は何やら根本敬の漫画に触れる時の好奇心に近いものを感じて本作を観ようと思った。が、作品に向き合うやいなやぐいぐいと大野一雄の「ジェンダーも国籍も民族もダンスも『舞踏』すらもすべてのジャンルを超えた脱領域の境地に佇んで」いるその存在感に引き込まれ二度、三度とボロ泣きしてしまった。
私は大野一雄の現在の姿しか知らない。下半身が不自由になり日常生活もおぼつかない「舞踏の父」が椅子にもたれかかったままで音楽に耳をかたむけやにわにひくりと指先を振りほどきからめ突き出して無我夢中で「躍り続ける」その姿しか私は知らない。知らないのだがそうした大野一雄の50年代、60年代の若き肉体を想像して息をのむような場面は本作中一度もなかった。監督自身が高齢であるからかメモリアルにしてなるものかといった意地のようなものが本作にはひしひしと伝わっているような。
稽古場まで研究生たちに骨董品のようにそうっと抱きかかえ運ばれて登場する大野一雄。周囲で若き研究生が思い思いに身体をくねらせ始めるとそれらに触発されたのか椅子からずり落ちるようにして床にはいつくばりそのままうねうねともがくように躍りだす姿を冒頭に持っていく切り口もまたいぶし銀。このシーンだけなら養老院のレクリエーション風景と見間違えても仕方ないような神格化とは真逆の「演出」振りから映画は幕を開ける。それからエンディングまでの100分間ノンストップで大野一雄は踊り続ける。研究所で、自宅の食卓で、織部賞の表彰式で、インタビュウの最中ふいに言葉を失ってかゆらゆらと表情豊かな両指をくねらせ突き出して。
それらの舞踏が全体何をイメージし伝えようとしているのかはどうでもいいような気が私にはした。何をイメージし伝えようとしているかまったくわからなくとも何をイメージし伝えたいのかとこちらの関心を惹きつけて止まないその時空を作り出す大野一雄の手腕こそが素晴らしいのだ。子どもの落書きと抽象画の違いから説きますればといったオープニングから学歴不問の大宇宙塾よ。