ハチのムサシで踊り狂ったのである

4月25日、フィルムセンターにて「追悼特集 映画監督 今村昌平黒木和雄」,『ええじゃないか』(81年松竹=今村プロ)を観る。主演の泉谷しげるは当時俳優として注目され始めた頃だったような。ミュージシャンを映画の世界に引きずり込んで案外達者な演技に周囲がおののいたりしていた時代の際中か。
今は逆にミュージシャンから俳優に転向というのはマイナーチェンジの感があるような。その傾向をつくってしまった駄作ドラマが多過ぎたのかもしれない。駄作と知りつつ目当てのミュージシャンが出演していればとりあえず観てしまう受け手側の問題もあるか。いや問題はないのか。それらはエルヴィスのミュージカル映画のように駄作ゆえに連発されやれやれと鑑賞され続けられるべきものなのか。プロレスのリングに女優やコメディアンが闖入バトルを繰り広げたりするのもむしろそれこそが王道で本来真剣に批評すべきものではないと。
それはそうとしてミュージシャンが俳優に転向するのが決してしょぼくれ人生でなかった時代。その時代の泉谷しげるが本作の中で輝いていたかといえばどうもよくわからない。全然輝いてないじゃないとも思える。全然やる気ないんじゃないとも。が、このちゃんとやらないゆるゆるのアプローチというのが当時は輝いて見えたような。『俺たちひょうきん族』や『探偵物語』などに見られたいい加減振りとやる気のなさが当時は痛快だったのだ。
なぜ痛快だったのか。ちゃんとやらないアプローチに皆拍手を送ったあの時代にはちゃんとやらなきゃ殺されかねないような強権政治下の物作りに舌を出す態度が何というか格好良く思えたような。『蒲田行進曲』のヒットなどもその裏返しかとも。本作で泉谷と共演する桃井かおり、田中裕子などもちゃんとやらない時代の輝きを持った女優だと思う。
この2人、当時仲悪かったんだよなとふと思い出した。『ええじゃないか』のロケ中にクライマックスの女優陣総出の立ち小便シーンを桃井かおりが嫌がったが田中裕子がそれをたしなめたとか。たしなめた田中裕子が自分は吹き替えなしで立ち小便するのかったらしないんだものと桃井かおりがラジオ番組でこぼしてたのを今思い出した。桃井かおりのラジオ番組なんて当時中学生の私は聴いていたのか。あのゆるゆるのアプローチが痛快で格好いいとでも思っていたのかしらん。
いや何に文句言いたいのかといえばちゃんとやらないアプローチが痛快だと喜んでいた当時の映画ファンが何から目をそむけていたといえばちゃんとやって死んでしまった映画の世界の「英霊」に対してに他ならぬこと。笑ってごまかし踊ってごまかすのも悪くないにせよ何をごまかして生きのびているのかも忘れる様では一寸。忘れようにも思い出せない不確実な時の瀬戸際。