五十肩の女房は質入れ不可である

10月24日、TSUTAYAでレンタルしてきたDVD『僕は天使ぢゃないよ』を観る。74年にあがた森魚が制作した今で言うインディーズ映画である。横尾忠則岡本喜八大瀧詠一緑魔子泉谷しげる山本コータローなどなど多数の各界アーティストがヒョイと出演している玉手箱のような作品。泉谷しげるにも同じ頃にミュージシャン仲間、役者仲間を集めて撮った自主映画があったはずだがそちらはまだ眠ったままのよう。
『僕は天使ぢゃないよ』がリバイバル上映されたりDVD化されたりしたのは偶然当時声をかけた面々が今では超大物化してはいても本作もしくはあがた森魚には好意的だったからだと思う。本作を観てるうちに私が思い出したのが数日前にロードショーで観た北野武監督作品『アキレスと亀』なのだが。
オープニングのギリシャ神話をモチーフにしたキテレツなアニメーション。主人公が売れる見込みのない自称芸術家で経済的には恋人にオンブにダッコの飲んだくれであること。『アキレスと亀』が『僕は天使ぢゃないよ』を意識しているかどうかはさておきこうしたツモリアーティストのその日暮らしが今また旬な素材になりかけているような感も。
70年代初頭にそうしたヒッピー生活に身をゆだねる若者たちの頭上にはオカッパ程度の男の長髪にも不快感を隠さない世代の父親たちがいたが現在はどうか。娘と一緒にギャルに扮装し日焼けサロンでミイラ化しても自分は有頂天な永遠の緑魔子な妖怪を母に持つ若者たち。彼等がヒッピー生活にゴーを出す際に何がしかのブレーキいになるものは今何もないような。どうせ自分は大物代議士の息子でもないしフリーセックスくらいしか世襲できないっスよと自嘲するのは勝手ではある。が、『アキレスと亀』で中年期を過ぎてまだヒッピーな主人公夫婦の収入源が今では娘の売春であるくだりはこの時代に何かをぶっちゃけているような。
アフリカの飢えた子供たちがピカソの絵とおにぎりのどちらを欲しがるかねという劇中のメッセージよりも深刻といえば深刻、ズッコケといえばズッコケな真実。つまるところこの国で芸術家の看板をはっきり挙げている大家の台所事情の中に少なからずアダルト産業は食い込んでいると。別に映画が良けりゃ金はどこから集めたものだろうとかまわないのかもしれないが。何だか『アキレスと亀』の方がセコイ絵に見えそうな気がして『僕は天使ぢゃないよ』をは今の若者たちの前では眠らせておきたいような。巻末インタビューであがた森魚自身が語るこれは当時の若者にもおとぎ話というくだり以外。