僕らが終って戦争が始まるのである

2月4日、神保町シアターにて『女であること』(58年東京映画)を観る。監督、川島雄三。受付で入場券を買ってしばらくすると「次回のチケットは只今売切れました」とモギリの女の娘が。それでもまだバタバタ駆け込む人々が。そんなに隠れた名作なのかと思ったが。
オープニングで丸山明宏がくねくねとカメラ目線でテーマ曲を歌い上げる。詩は谷川俊太郎。音楽は黛敏郎。原作は川端康成とビッグネームが並ぶが。会場の平均年齢もさすがに高い。昭和三十三年に本作が公開された当時の反響はどんなものだったのだろう。ビッグネーム揃いの割には特に映画賞も受賞していないのでこの年何かもっと話題性のあるヒット作が公開されていたのかもしれないと思った。が、ヒロインの久我美子の衣装とメイクを見て思わず椅子からズリ落ちる。
全身オードリー・ヘップバーンになりきって小鹿のようにスキップしながら歌うような台詞まわしで画面を跳ねる姿は痛々しい。いや当時は少しも痛々しくなかったのかもしれない。が、久我美子のなりきりヘップバーンが恋人とのデートシーンで跳ねまわる九段下のロケ地にはまだガレキの山が残されて今とは比べようもなく殺風景なのだ。
当時はこれが当たり前だったのだろう。戦災の跡はそれはそれとしてヘプバーン気取りの久我美子を陽気にスキップさせてみたかったのかもしれないと思った。が、本作のストーリーは森雅之演じる弁護士が担当する事件の受刑者の娘(を、香川京子が演じる)を預かるが同時に遠縁の家出娘にも頼られる暗黒悲喜劇といった内容。家出娘役は久我美子で冒頭からひたすら明るく陽気なのだが香川京子は反対に影のイメージを引き受けている。殺人役である父親が死刑になるか否かの状況下で担当弁護士の家に同居しているという設定は現在ではいかがなものとも思うが。
当時はそこまで襟元を正してはいられなかった訳はガレキの山を背景に『ローマの休日』を気取っているブルース感からも伝わってくる。いやもしかしたら川島雄三の狙いもそこにあったのかもしれないと。ガレキの山で踊るなりきりヘップバーンの久我美子は泣こうが笑おうがいたしかたないフェイクだと。フェイクな家出娘だけがこの時代唯一元気で希望に満ちた存在なのだが。フェイクじゃないものが一番元気で希望に満ちていた時代が昭和三十三年以降あっただろうかしら。それがあればいいのだがという思いをなりきりヘプバーンに川島雄三は投射していたのか。イエローキャブ軍団のモンロー姿と五十歩百歩のさもしくも哀れな戦後まもなきパンツの穴では。