マドンナ議員の方がワイセツである

9月24日、銀座シネパトスにて『愛のコリーダ』を観る。76年公開の本作は00年にやや海外版に近い形でリマスターされた。具体的にはヘアーはありでペニスの外観も少しはありでヴァギナはやっぱりなしといった。有名なワイセツ裁判も実際は映画の内容ではなく原作本の中のスチール写真にペニスやヴァギナが写っていることが問題になったもの。で、本作の内容もこりゃ裁判になるわなと思わせるほどショッキングかというと今となっては何とも言えない。
ただ、最近になって近所の古書店で85年のオレンジ通信なぞつい入手してやっぱりビニ本って当時相当イヤラシイものだったと思い出したりもして。「月下美人」とか「金閣寺」とか文芸作品風のタイトルからしていかにも怪しげだったし当然見たこともない無名モデルが暗い表情でペニスをくわえている様子も自分が燃費バリバリの中学生だったことを差し引いてもそれはショッキングであった。あの何とも言えぬイヤラシさはビニ本文化で打ち止めでそのビニ本文化に火をつけたのが『愛のコリーダ』なのではと。
主演の松田英子は当時無名でその後もこれといった代表作はない。が、この徒花振りが阿部定のキャラクターにベストマッチであり文字通りやるだけのことをやっている。やるだけやった只それだけの男女の顛末がラブストーリーとして成立した昭和11年とはいかなる時代であったか。情人のペニスを切断してお守り代わりに身に付けていた女に平民たちは拍手を送ったその時代に世の中を動かしているつもりの層はどんな暮らしをしていたのか。
社会派監督と呼ばれる監督もそうでもないはずの監督も割とそうした作品を撮りたがる傾向にあった70年代の後半に大島渚はそうした映画を撮らずに海外資本のハードコアポルノを撮った。世の中を動かしているつもりの層の間にスポットをあてるより始めから真っ暗闇の貧困層の男女が「お前がよけりゃそれでいい」などと愛欲にまみれて頓死する様を描く方がより過激である。と、大島渚は思ったのだなと私は思ったのだが。観客の期待の上をいく過激なサービスを続けてきた大島渚は最終的には性そのものを、死そのものを撮りたいと発言していたが。
愛のコリーダ』は76年にはそのような作品だったかもしれない。藤竜也が60過ぎの芸者とふざけ半分にファックするシーンに思った。見たこともない無名女優という点ではこの老女も松田英子も同じかなどと。「愛なんて図々しいもんだと思ってるから」というビートたけしの言葉も思い出して。皆さんやるだけやっていただいたんで。