だが今はカット、ぼかし全盛なのだ

4月23日、『バージンブルース』(74年日活)をDVDで観る。監督、藤田敏八。「私達って高校生でもないし大学生でもない」主人公の秋吉久美子は地方から上京して予備校の寮で浪人生活を送っている。趣味は集団万引き。狙いをつけたスーパーの店先に積んである菓子パンのケースにぼかしが。社名が映ると何がまずいのか。近頃では過去に観た映画を再観すると何だあんなシーンはなかったのか、同じ役者か同じ監督の別の映画と記憶違いをしてたのかと思うことがしばしば。だが今はカット、ぼかしの全盛なのだった。その割に本作終盤に登場する岡山のストリップ劇場の看板には堂々と「中国ヌード」と。こちらは問題ないのか。中国地方のタレントによるチームダンスのことか。長門裕之は経営不振で逃げ回っているラーメンスナックのオーナー役。レイバーンのグラスの色はうす茶だが。小学生時代の私はこの写真のタモリ眼が写ってるなどと騒いでいたが。かつてサングラスは面が割れては困る事情のある者のツールでもあった。この男だわ!と雑誌の写真やテレビ映像を指差し呼ばれないよう常にサングラスをしているのだ。と、周囲に思わせたがっている男のイメージが浜田省吾あたりまではあった。それも格好よかった。今顔バレを怖がってそうな有名人にダンディズムを感じる風潮はあまりない。本作の長門裕之は帰郷する秋吉久美子に汽車代を貸してやり金はいいからもう少し付き合うようなことをいって結局二人旅を続ける。もちろん体目当てなのだが。「どこへ行く?別に決めなくていいか」と43歳の長門は言う。90年代の70年代回顧ブームの中で本作をちゃんと観なおした私はこの長門裕之に憧れた。私はまだ二十代の終り。映画の中の長門裕之と同世代になってみるとこれは相当に苦くせつない。確かに体目当てであるが残りとぼしい所持金同様に体のなかにあるものを使いきったらそれでおしまいである。この苦さ、せつなさが身に沁みてきたということは私自身の人生の老化、私小説化が深刻だということだ。『夕暮まで』など今ならすすり泣いて熟読してしまうかもしれない。おととし東京を離れる前に一度はと渋谷にある戸川昌子経営のナイトクラブに行きかけた頃があった。オーナーも週に何度か顔を出すのでどなたも気軽に声をかければよいとフライヤーに。もしそこで戸川昌子に気軽に声をかけることに成功していたら私はいったい何を語っただろう。無頼ぶってわかったようなことを口走っても嫌な顔ひとつせず相手をしてくれたに決っている。危ないところであった。